サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「古都」 6

 勿論、好きにすればいい。秋南の人生は、秋南のものだ。人から事細かに指図を享けながら築き上げた人生に、如何なる意味があるだろう。だが、誰も自分自身の本当の欲望の正体など、理解していないのが世の常ではないだろうか。これが自分の希望だと信じ込んでみても、時折足許が危うく揺らいだり歩調が狂ったり、胸の奥を一抹の虚無が吹き抜けたりするのは家常茶飯の出来事だ。自分の心が、本当は一番分からないのだ。自分自身の切実な欲望さえ容易く見誤って、それで総ての物事を難解な暗闇の中に押し込めてしまうのだ。
「自分が何を求めてるのか、それを知るのが一番難しいんじゃないかな」
「あたしは分かってるわ。きっと自由になりたいのよ」
「そしてまた、別の何かで自分を縛ろうとするんだろ? 新しい出逢いとか、愛情とか、欲望とか」
「なんかあたしが幸せになることに不満でもある訳?」
 尖った眼差しが虚空を切って、私の胸倉を掴むように迫って来た。焼酎のボトルに伸ばした指先の照準さえ、深い酔いの為に聊か乱れている。これ以上呑んだら、愈々取り返しのつかないことになるという不穏な予感が、私の脈拍を駿馬のように嘶かせた。
「そんなことはない。そんな訳があるかよ」
 私も飲み過ぎていたのだろうか。ほんの少しだけ胸に宿った筈の不可解な嫉妬が、少なくともその刹那、血塗られた紅玉のように明確な形を備え、抑え難い光をぎらぎらと放った。懐かしい夏空、降り注ぐ燦爛たる太陽光、無垢の情熱、そして経過した夥しい時間、積み重なった歳月。こんな不可解な感情に生存の権利を認めることは、内なる良心的な理性が許さなかった。
「あたしは自分の人生くらい、自分で選びたいのよ」
 荒っぽく据わった眼で此方を睨みつけながら、秋南はグラスに大きな氷を移そうとして、手許を狂わせてそれを床の上に滑落させた。耳障りな音が響いて、見知らぬ客たちの視線が俄かに背筋を衝いた。俺が拾うからと言い聞かせて、上体を垂直に保つことすら儘ならなくなった秋南を牽制する。
「もう酒は止めとけ。水にしておくんだ」
「あたしに指図するのは止めてよ」
「指図じゃない。心配してるんだ」
「皆そう言うわ。ママもそうよ。訳知り顔で、心配しているんだから言うことを聞きなさいって。もう、そんな手口には騙されないんだから。その為に、あたしは京都を離れたんだから」
 自由になりたい。確かに私も十代の頃は人並みに、漠然と「自由」という理念に憧れていた。それは純白のラベルで、どんな文字も好きに描き込める、素晴らしい余白のように、頭上に輝いていた。今では、単なる観念に過ぎないと分かる。いや、分かっているのかどうかは怪しい。それも一つの牢固たる先入観だ。一滴のインクさえ染みていない、可塑的な生活。そんなものに、価値を見出せなくなったのは、私が既に充分、穢れてしまった為であろうか。今では寧ろ、薄汚れたラベルの消え残った記号に、深い意味を見出そうとする嗜好が、草臥れた大人に堕した私の宿痾なのだ。病人になることが、生きることの本質ではないのか。洗いざらしの、白い麻のシャツ。日向に干した、皺の伸びきらない生成の布地。秋南、あんまり慌てるなよ。人生は長いんだ。辞書に綴られたパブリックな語義のように、私は「人生」に就いて語るが、本当はそんな真理を信用している訳でもない。
 食べ散らかした皿を尻目に、足許の怪しくなった秋南の肩を抱いて、どうにか会計を終える。路上に出た途端、秋南が上体を折ったので、慌てて目立たぬ暗がりへ連れ込み、背中を摩る。彼女は蝦のように吐いた。吐き出しても吐き出しても、彼女の不調は収まらない。こんなになるまで、深酒するなよ。後の祭りだが、一応は忠告する。あたしの勝手でしょ。潤んだ瞳は嘔吐の苦しさで霞んでいる。そうだな、余計な御世話かも知れない。立ち上がると、彼女は藍色のハンカチで唇を塞ぎながら、とぼとぼと歩き出した。明後日、引越のトラックが来るの。清澄白河で、新しい街で、大好きな人と一緒に、暮らすことに決めたの。その話は、さっき聞いたよ。秋南、落ち着けよ。だって、清澄白河に暮らすのよ。あたしの人生は、明後日から劇的に様変わりするんだわ。どんな過去の毒牙も、このあたしの駿足には追い付けないんだから。
 希望が、絶望の裏返しだったのか。魚の鱗のように、硬くて剥がすのに難渋する、希望の外側の絶望という表皮。船橋駅の改札へ消えていく彼女の背中は、晴天の雨傘のように畳まれて、頼りなく細かった。秋南、気を付けて帰れよ。私の言葉に、彼女は振り返らずに答えた。あんたもね。何時から年上みたいな口を叩くようになったのかしら。秋南の憎まれ口が、酒で火照った肌に快く触れた。もう俺たち子供じゃないんだ。どっちも大人だよ。年の差なんか関係ないさ。そうかしら、あんたは今でも何も変わってないように見えるけれど。
 孤り北口へ抜けて歩くうちに、幻のような霧雨が降り出した。ただ漫然と生きているだけの積りでも、眼に映る景色は確実に、子供の頃には想像もしなかったものへと、刻々と移ろっていくのだ。