サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「古都」 14

 何処へ向かって歩いていく宛もなかった。持て余した退屈で孤独な時間の有意義な使い途は、私の脳裡に浮かばなかった。ぶらぶらとJRの駅前まで散策して、忙しない雑踏の風景に我知らず気圧された揚句、私は愈々途方に暮れて立ち止まった。
 秋南と最後に酒を酌み交わした夜の記憶が、朧げに甦って、私の感情を不安で埋めた。何が不安なのか、この微かな胸騒ぎが何を意味しているのか、咄嗟に分からなかった。夏の暑さに草臥れて、喫茶店に入り、細かい氷をたっぷりと注ぎ込んだアイスコーヒーを片手に、窓際のカウンターへ腰を下ろした。本でも読もうかと鞄を探り、ラディゲの「肉体の悪魔」を取り出して数頁捲ったが、濃密な不倫の惨劇に神経の束を寄り添わせるのは、そのときの私には困難な営みだった。死者の追憶の深淵に溺れつつあるときに、ラディゲの描き出す少年の残酷な愛慾は聊か息苦しく、胸焼けを強いられそうだった。卓上に閉じた文庫本を横たえて、頬杖を突きながら、私は窓の外の単調な風景を眺めた。
 秋南は何故死んだのか、その理由は定かではなかった。同棲していた男との間に、何かトラブルでも起きたのだろうか。葬儀の会場に、その男の姿はなかった。普通ならば、遠縁の親戚の何倍も劇しい悲嘆を高ぶらせて、男はきっと冷たい棺に縋りついて嗚咽するだろう。愛する女が死んで、葬儀に顔も出さないというのは、明らかに異変の発生を報せているように思われた。
 秋南は男と同棲していた部屋のトイレで、夥しい量の睡眠薬を呑んで事切れていた。最初に彼女を発見して警察に報せたのは、その男だったという。如何にも不穏な成り行きで、これが推理小説ならば恋人による不可解な殺害を疑いたくなるところだが、男はその日、仕事に出ていて、明確なアリバイが存在するらしかった。だが、それならば何故、葬儀に顔を出さなかったのか。
 探偵稼業の真似事に踏み込む積りはなかった。警察が潔白だと看做したのならば、それ以上の臆測や詮索は無用である。伯母も、特に娘の恋人を他殺の下手人と看做している様子はなかった。一応、彼女の寝室には遺書が一通あったらしい。その中身を伯母に訊ねることは出来なかった。そんなことをすれば、どんな暗黒が口を開いて牙を剥くか知れたものではない。
 遺書の存在だけが、彼女の自殺の中核に蟠っていた不可解な感情の実在を立証していた。いや、遺書に悉く真実が書かれているという保証はない。その文面は、秋南の両親以外に誰も眼を通していない筈だった。そこに綴られていた言葉が、若しも禍々しい血塗られた怨嗟であったならば、伯母の劇しい憔悴にも、益々納得が行く。或いは、これまでの諍いを悔やむような、哀切な詫び状であったならば、伯母の悲哀は一層力強く煽り立てられただろう。けれども、刑事ではない私には、遺族の感情や思念に殊更に近付いていこうとする驚くべき非情な情熱が欠けていた。私は不可解な現実に囚われながら、それを暴き立てようとする野心や情熱と無縁であった。それならば一体、私は何に心を奪われているのだろう。この定まらない感情の焦点は、何に揺さ振られているのだろう。何が私の無意味な不安を煽動しているのだろう。アイスコーヒーの氷が溶け終わるまでの時間は、その問いに答えを与えるには短過ぎた。
 家に帰り、アパートの階段を登ろうとして、背後にバイクの音を聞いた。振り返ると、ヘルメットを被った郵便局の配達員と視線が合った。眼鏡を掛けた、寡黙な印象の若い男だった。彼は右手に一通の有り触れた茶色の封書を握っていた。直感が働いたのか、配達員は封書の宛名を読み返して、その鋭利な眼差しを私に向けると、唐山さんですかと低い声で訊ねた。そうですと答えると、御手紙が届いていますと言って、私の手に素気なく茶封筒を握らせた。走り去っていくバイクの眠たくなるような響きを背筋に浴びながら、私は封筒を裏返した。差出人の記名はなかった。誰が封書など送って来たのだろうと怪訝に思いながら、私はアパートの階段を黙って登った。奇妙な不安が、不意に喉首へ迫り上がった。秋南だろうか、と思った。だが、彼女は既に死んでいる。死人が万年筆を握ったり、切手の糊を湿したりすることはない。復活を信じる理由もない。
 誰もいない部屋には、蒸された空気が鬱陶しく充満していた。窓を開けて風を入れる気分になれず、私は空調の電源を入れて、仄かに黴臭い人工的な涼風を浴びることを選んだ。台所のカウンターに置かれた小さなデジタル表示の時計に、温度計の機能が備わっている。角張ったアラビア数字は、33度を示していた。冷蔵庫の扉を開けて、冷えた麦茶の壜を取り出した。薄暗い室内で、それは病人の採血のような色味を滲ませていた。
 ソファに座って封筒を切ると、何かが床に敷いた葭簀風のラグの上に落ちた。それは押花だった。燃えるような鶏頭の紅が、不自然に映えていた。