サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 4

 武岡亘祐という男の何がそれほど、他の男たちと違ったのだろうか。いや、そんな大仰な設問は却って事態の全貌を見誤らせる弊害となるかも知れない。似たような時代と土地に生を受け、似たような境遇を過ごして、似たような大学に進んだ男が、その他の有象無象と比べて圧倒的に傑出していると考えるのは、余り公平な判断ではない。恐らく亘祐は、少なくとも椿の眼に映る限りでは、他の男たちと「ほんの少しだけ」何かが異質だったのだ。繰り返される日常に忍び入る些細な事故、例えば電車の遅延や劇しい夕立が、人々の関心を強く惹き寄せるように、亘祐の些細な独創性が、椿の琴線に触れたのだろう。
 はっきり好きなのかと初期の段階で問い質されていたら、却って関係は息苦しいものとなったかも知れない。事前に愛を告白した上で肉体的な関係に進むという古典的な儀礼が、椿は不得手だった。予め契約書を取り交わさなければ、その後の取引など有り得ないという奇態な慣習の意義を、椿の魂は理解しなかった。そんな訳の分からない占い師の真似事を強いられる理由が、彼女にはどうしても巧く呑み込めなかったのだ。それは恐らく「結婚」という年季の入った仕来りの複写であり、御稽古用に縮約された手続きなのだろうと椿は勝手に考えていた。婚姻届の提出は明らかに、不確実な未来を契約によって縛ろうとする制度への同意であって、それと似通った論理が「告白」という不可解な慣習の裡にも息衝いている。だが、一体誰に未来を買い取る権利や能力が備わっているだろう? 寧ろ誰にも買い取ることなど出来ないから、せめて見通しだけでも立てておこうという算段の賜物なのだろうか? しかし椿は、契約書の体裁を整えることより、相手の深みに素潜りを試みることの方が遥かに好みだった。愛情が確約されない限り、最後の一線を越えてはならないという臆病な流儀は、彼女の眼には余りに遅鈍な振舞いに映った。最後の一線? あれがそんなに重大な営みだろうか。肉体の粘膜を擦り合わせる動物的な本能に裏打ちされた行為を、誇大に買い被る悪習は虚しいだけだ。一度抱き締め合って深みに溺れたくらいのことで一体、相手の真実の何が分かるだろう? 存在の秘められた本質が一挙に開示されるとでも? 初めての素潜りで、マリアナ海溝の奥底に降り積もった古代の貴重な砂を掬って持ち帰ることなど、誰にとっても不可能であるに決まっている。
 英文学科の親睦会という名目の集まりに同席し、大学の近くの居酒屋で明け方まで酒を酌み交わし乱痴気騒ぎを演じたのが、二人の馴れ初めの愚かしい発端だった。外国の小説は、誰かの拵えた良質な翻訳を通じて味わえばいいという怠惰な文学少女である椿とは対蹠的に、父親の仕事の都合で幼少期をブリストルで過ごした亘祐は英語に堪能で、シェイクスピアディケンズもオースティンも原書で読んでいた。色白で清潔な肌を持っていることも、椿の生理的な好みに合った。連絡先を交換し、二人きりでクラフトジンを呑みに行く約束を交わした後はもう稲光のように、一瀉千里に関係は発展した。
 息を吸い、水を呑むように小説を濫読する生活を送ってきた彼女の慢性的な悩みは、既に述べた通り、周囲に同好の友人を見つけるのが難しいという点に存していた。近現代文学研究会の涅色くりいろの染物のように地味な暖簾を潜ったのも、そもそもは同じ趣味の持ち主とささやかな紐帯を結び合わせたいという健気な願いに由来していたが、その涅色に恋心の緋色を織り交ぜることの出来そうな手頃な相手は残念ながら発見出来なかった。フランス心理小説の伝統には詳しいが、恋愛の実践的な技巧に関しては大根役者である沢村でさえ未だマシな部類で、その他の男子たちは生身の女と関係を持つことを空想の世界でしか味わったことのない消極的な童貞揃いであった。別に椿は童貞の男子を不当に蔑んだり迫害したりしようとは思わなかったが、端的に深入りするのが面倒だという気持ちは強かった。長年に亘って妄想の燈油で煽られまくった欲情の焔をいきなり全身に浴びせられて深刻な火傷を負うのが怖かったのだ。
 その点、亘祐は文学的な教養に関しても男性的な洗煉に関しても、椿の見えない及第点を絶妙に確保していた。小学生のように単純な趣味だと思われるだろうが、椿は亘祐の優れた語学力にさえ恋心の微かな疼きを覚えていた。自分が翻訳という人工的な暗渠を活用しなければ辿り着けない異国の抒情的な秘境に、彼は持ち前の武器を用いて単身、幾度も踏み込んで魅惑的な風景を網膜に刻み込んでいる。亘祐が語る「闇の奥」の感想は、日本語に置き換えられたコンラッドではなく、世界中の野蛮な潮風が染み込んだ船乗りの英語で綴られたコンラッドに基づいていた。空調の効いた部屋で怠惰な濫読に耽っている椿と違って、亘祐は果てしない曠野の荒々しい風光を直に浴びながら、しかも洗煉された繊細な表情を崩さずに保っているように見えた。