大学三年生の夏に、亘祐が他に好きな女性が出来たから別れて欲しいと言い出したとき、椿は束の間、彼の言葉の意味を精確に計量することが出来なかった。
亘祐はその年の春から旅行代理店の営業部員として、着慣れないスーツを窮屈そうに纏いながら、社会の真新しい歯車に転身していた。学部生時代は何時も飄然と澄まし顔で周囲の物事を眺めていた亘祐も、内定者向けの研修合宿を終える頃には、余裕を欠いた痛ましい雛の苦衷を露わに示すようになっていた。卓越した英語の能力を買われたらしいが、その取り柄だけで総ての仕事が巧く捗る筈もない。我武者羅に記憶せねばならない複雑な知識の数珠を胃袋に収めかねて、彼は何時も嘔気と格闘しているような表情をしていた。予ての希望通り、大学院に進んで英文学の研究に没頭すれば良かったのにと、椿は傍観者の立場から無責任な感想を懐いていた。支えてあげたい、助けてあげたいとは思うものの、勤人の渡世を経験したことのない椿が幾ら慰藉の言葉を編み出してみても、そんな浮薄な雪片に似た励ましの科白で、亘祐の魂が癒される筈もなかった。
そういう食い違いの日々が続いて、月遅れ盆の送り火が済んだ頃に、椿は失恋の痛手を被ったのだった。それは過去に幾度も経験した覚えのある沫雪のような別離とは異質で、遥かに硬質で明瞭な苦痛の
新宿駅西口の広々とした喫茶店の片隅で、亘祐は色々な感情を抑え込んで、二人の今後に関する自身の意向を平静に説明した。椿はその言葉の一つ一つを鼓膜に吸い取りながら、透明な衝撃が何の物音も立てずに、ただ無言で細胞の組成を組み替えていくような感覚に襲われた。要するに、これは破産宣告なのだ。私たちの円満な関係は知らぬ間に油が切れて軋むようになり、歯車が欠けて巧く咬み合わなくなっていたのだ。こうした破局が、水面に潜んで無音で差し迫る鱶の背鰭のように顕れて、一瞬で絆を支える心臓を食い破ったことに、椿は茫然としていた。別離はもっと劇的で、華々しいほどに悲愴なものだと思っていたからだ。しかし、それは殆ど寡黙な通り魔のように、擦れ違いざまに彼女の魂の最も脆弱な部分を刺し貫いた。血が噴き出していることにさえ、直ぐには気付かなかった。
彼女は同意した。空白に埋め尽くされた意識をただ傾けて、項垂れながら承諾した。哀しみの感情は未だ現実の衝撃に間に合っていなかった。だから、殊更に涙を流して同情を誘い、移り気な恋人の心に十字架の重みを担わせることも出来なかった。立ち上がって勘定を済ませた亘祐の顔つきは別人のようだった。私は生まれて初めてこの人に出逢ったのだと、椿は思わずにいられなかった。