サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 6

 大学三年生の夏に、亘祐が他に好きな女性が出来たから別れて欲しいと言い出したとき、椿は束の間、彼の言葉の意味を精確に計量することが出来なかった。
 亘祐はその年の春から旅行代理店の営業部員として、着慣れないスーツを窮屈そうに纏いながら、社会の真新しい歯車に転身していた。学部生時代は何時も飄然と澄まし顔で周囲の物事を眺めていた亘祐も、内定者向けの研修合宿を終える頃には、余裕を欠いた痛ましい雛の苦衷を露わに示すようになっていた。卓越した英語の能力を買われたらしいが、その取り柄だけで総ての仕事が巧く捗る筈もない。我武者羅に記憶せねばならない複雑な知識の数珠を胃袋に収めかねて、彼は何時も嘔気と格闘しているような表情をしていた。予ての希望通り、大学院に進んで英文学の研究に没頭すれば良かったのにと、椿は傍観者の立場から無責任な感想を懐いていた。支えてあげたい、助けてあげたいとは思うものの、勤人の渡世を経験したことのない椿が幾ら慰藉の言葉を編み出してみても、そんな浮薄な雪片に似た励ましの科白で、亘祐の魂が癒される筈もなかった。
 そういう食い違いの日々が続いて、月遅れ盆の送り火が済んだ頃に、椿は失恋の痛手を被ったのだった。それは過去に幾度も経験した覚えのある沫雪のような別離とは異質で、遥かに硬質で明瞭な苦痛のさねを彼女の魂の奥底に植え付けた。彼女の感情ははっきりと陰鬱な痣を負っていた。その痛みは根深く、簡単に洗い落とせるものではないということが直感的に明瞭だった。追い縋ることは此方の勝手だが、向こうは既に恋心を失い、新しい生活の構図に追い立てられて、昔日を懐かしむ心の余裕さえ欠いていた。彼が宿した新たな恋人の面影は、彼の投げ込まれた新しい生活の要請の産物だった。椿は、見込みのない恋慕を引き摺って虚しい日月を閲することに億劫な気持ちを懐いた。そういう不合理な情熱を掻き立てられない自分は結局のところ、大して亘祐を愛していなかったのではないかと、折々の寂寞の底に屈み込んで彼女は考えた。去る者を追う情熱に身を投げることが出来ないのは、賢さの証なのか、それとも怯懦の徴なのか。椿は今まで読み漁ってきた夥しい冊数の小説を脳裡に思い浮かべ、幻想の世界で繰り広げられてきた多彩な恋愛の破局の風景を想起した。彼女は坂口安吾の「悪妻論」の一節を記憶の深みに手繰った。「夫婦は愛し合ふと共に憎み合ふのが当然であり、かゝる憎しみを怖れてはならぬ。正しく憎み合ふがよく、鋭く対立するがよい」という不穏な呪文にも似た言葉が、彼女の唐突に口を開いた孤独の身を繭のように包んだ。私は憎み合うことさえ怠ってきたのだ。好奇心の延長で、他人の庭園に何時も手ぶらで寄り道して、何かの拍子に同衾して、一夜限りで構わないと涼しげに嘯いてきた。椿は恋心というものを自分が随分と見縊っていたことを改めて思い知った。偶然に発見した湧き水の清冽さに驚いて、ずっとその傍に屈んで木洩れ陽を浴びていた呑気な少女が、転寝から醒めると既に水盤は涸渇していたという訳だ。椿は、見知らぬ他人に傷を悟られて虚しい慰めの言葉を押し付けられないように、顔色も変えず密かに嘆き苦しんだ。不潔な繃帯を腕一杯に抱え込んだ恩着せがましい看護師に見咎められないように、彼女は静謐な孤独の殻を好んで纏った。泉が涸れたことが、こんなに哀しいのは何故なのだろうと思った。恐らく、自分が何も本気で求めたり望んだりせず、見苦しい妄執の言葉一つも吐けなかったことが悔しく、虚しいのだ。つまり、あの穏やかで誠実な時間の平淡な連なりが宿していた意味が、咄嗟に掴めなくなったのだ。
 新宿駅西口の広々とした喫茶店の片隅で、亘祐は色々な感情を抑え込んで、二人の今後に関する自身の意向を平静に説明した。椿はその言葉の一つ一つを鼓膜に吸い取りながら、透明な衝撃が何の物音も立てずに、ただ無言で細胞の組成を組み替えていくような感覚に襲われた。要するに、これは破産宣告なのだ。私たちの円満な関係は知らぬ間に油が切れて軋むようになり、歯車が欠けて巧く咬み合わなくなっていたのだ。こうした破局が、水面に潜んで無音で差し迫る鱶の背鰭のように顕れて、一瞬で絆を支える心臓を食い破ったことに、椿は茫然としていた。別離はもっと劇的で、華々しいほどに悲愴なものだと思っていたからだ。しかし、それは殆ど寡黙な通り魔のように、擦れ違いざまに彼女の魂の最も脆弱な部分を刺し貫いた。血が噴き出していることにさえ、直ぐには気付かなかった。
 彼女は同意した。空白に埋め尽くされた意識をただ傾けて、項垂れながら承諾した。哀しみの感情は未だ現実の衝撃に間に合っていなかった。だから、殊更に涙を流して同情を誘い、移り気な恋人の心に十字架の重みを担わせることも出来なかった。立ち上がって勘定を済ませた亘祐の顔つきは別人のようだった。私は生まれて初めてこの人に出逢ったのだと、椿は思わずにいられなかった。