サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 7

 恋が醒めた途端に人は、魂を丸ごと交換したような劇しい変貌を遂げる。椿は、そもそも自分自身の魂が変貌するような恋愛を知らずに長く過ごしてきたから、亘祐と訣別した後は暫く、蝉の抜け殻のように何処へも出掛けず、余り小説も読まなかった。他人の色恋や生態に持ち前の好奇心を燃やそうにも、冷淡な現実に打ちのめされた衝撃で意識の中心が鈍痛を発し、食道に異物が閊えたように濫読への情熱が湧かなくなってしまったのだ。仰々しい活字の羅列を、彼女は無味乾燥な蟻の行進のように看做し、明晰な日本語で綴られた文章であっても、異郷のエージェントから送られてきた難解な暗号のように感じた。部屋のソファに寝転がって、空想の世界へ意識の焦点を飛翔させようと試みても、彼女の精神は柔軟で強靭な足腰を失っていた。彼女の魂は気懸りな現実に引き摺られて、黐の罠に囚われた憐れな雀のように身動きが取れず、足掻いて逃れようと試みるほどに却って縄目は深く彼女の皮膚に喰い入った。
 自分が恋に溺れていたことを、椿は別離の後で初めて知った。こういう絡繰は残酷過ぎると彼女は思った。手遅れになってから、泥沼の苦悩を泡立たせる不条理な世界の流儀に、彼女は深刻な不満を禁じ得なかった。何もかも手に入らなくなった後で、それが自分の一番欲しがっていたものだったと気付かされるのは惨たらしい仕打ちだ。あんなに何気なく、平凡な量産品の外見を備えて、日常を隈無く覆っていた感情の飾りが、こんなに掛け替えのない稀覯本だっだと思い知らされて、この未練がましい痛みをどう取り扱えばいいのか、椿には分からなかった。そのくせ、彼女は忽然と舞い降りた別離の宿命を拒む素振りさえ見せられなかった。根深い無力感が、不毛な哀訴を妨げていた。決定的な隔絶を、この期に及んで訂正することなど不可能だ。
 最近はどうなの、と親しい友人に訊ねられて、椿は曖昧な返答に終始した。肚の底を探られるのが不愉快で、緩慢な速度で育っていく瘡蓋を傷つけられるのも怖ろしかったから、彼女は明快な返事を渋ったのだが、そういう身振りが却って如実に「事故」の片鱗を周囲に勘繰らせた。思い切って深入りの質問を突きつける者もいれば、慎み深く腫物から指先を遠退ける者もいた。何れの反応であっても、椿の心は救済されなかった。通り一遍の優しさも残酷な好奇心も、彼女の傷口と瘡蓋の衛生には役立たなかった。
 それでも流れる時間に鎮痛薬の効能を期待するのは古来、世界中で行われてきた普遍的な民間療法で、去り往く恋人の背中に見苦しい嗚咽を届かせようとする振舞いを自分自身に禁じた以上は、記憶と感情の風化を待ち侘びることは椿にとって不可避の選択肢だった。彼女は時が停止したような感覚の中で、時の堆積を待った。砂時計の顆粒の行方を一つずつ見凝めて追い掛けるように。
 失恋に伴う心の出血を抑えるもう一つの効果的な薬は、美しく悲惨な思い出を上書きしてくれる新たな情熱を、別れた恋人以外の対象に向かって専一に捧げることである。それが新しい恋であっても構わないが、去り往く亘祐の後ろ髪を乱暴に引っ張る蛮勇さえ揮えなかった椿には、官能的な狩人の資質が欠けていた。彼女は寧ろ無用心な獲物であり、友情と愛情の境界を弁えない軽率な態度によって、狩人たちの食欲を唆ることが本領だった。実際、亘祐と破局した後の彼女の許には、数多の誘惑が寄せられた。死骸の異臭を敏速に嗅ぎつけ、木立や茂みに紛れて餓えた胡狼ジャッカルが屍肉に群がるように、失恋の痛みに苦しむ椿の心理的な間隙を狙う男たちは後を絶たなかった。
 けれども、椿は狩人たちの涎が瀝る音に嫌悪を懐いた。露骨な性欲、或いは無力な人恋しさ、それらのアマルガムを彼女は肯定出来なかった。亘祐と知り合う以前の彼女なら、彼らの野蛮な情欲は好奇心の対象だった。肉体的な交わりは一つの社会的な学習に過ぎなかった。しかし、亘祐との平穏な時間を過ごし、薄皮のような愛情を少しずつ重ねて美しい追憶を織り上げた後では、貪婪な男たちの尽きせぬ欲望は、汚らわしい排泄への衝動と同義であるように感じられた。彼らは確かに椿という一人の女性を求めていたが、自分が椿に何を与えられるのかという点に就いては、明らかに熟慮を怠っていた。或いは、自分の価値や能力を過信していた。無論、狩人である以上は、臆病であったり謙虚であったりすることは必ずしも美徳ではない。彼らは甘言を弄し、多彩な役柄を演じ、愛情に対する己の誠実を誇り、小難しい理窟よりも触れ合う肌の温もりの方が遥かに素晴らしく根源的なものであることを、椿に向かって熱心に語って聞かせた。だが、それらの壮大な演説は概ね、椿の心を打たず、時には鼓膜を振動させることにさえ失敗した。男たちは苛立たしげに次々と彼女の視界を去り、椿の与り知らない場所で、陰湿な中傷の科白を宝石商の如く煌びやかに陳列して屈辱を雪いだ。