サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 9

 我関せずの気儘な態度を貫くには相応の覚悟が要る。失恋の痛手に冷静な理智を曇らされた椿は暫く、怠惰で自由な生活に埋もれて世捨人の境涯に身を窶していたが、早春を迎えて就職活動が本格化すると、両親や教員からの社会的な圧力は俄かに強まって、彼女の優雅な孤独に旺盛な容喙を始めた。椿の側でも、この抜け殻のような日々が永遠に持続し得るとは考えていなかったし、割合に上品な家庭で可愛がられて育った甘さの故か、奈落の底を這い回る正銘の世捨人に徹する決意は固められなかった。彼女は背中を小突き回されて漸く表層的な堕落の境遇から足を洗い、否が応でも迫り来る自立の刻限に備えて、齷齪と蟻のように動き回る日々を受け容れることに渋々同意した。
 自分は一体何者になりたいと考えているのか、先ずはそれを改めて解剖し分析してみることが最初の重要な踏段であった。だが、斎戒沐浴して自己の内面を無造作に覗き込んでみても、涸れた古井戸の奥底を確かめるようなもので、視界に映じるのは生温く不吉な闇の一色であった。時折きらりと何かが光って見えるが、その素性を敏速に見究めることは酷く困難で、無理に眼を凝らせば冥い水面に在りもしない幻影を描いてしまいかねなかった。
 初めて試みた難儀な探究の涯に、椿は今まで一度も、自身の明確な未来図を真摯に検討したことがないという衝撃的な事実に辿り着いて唖然とした。言い換えれば彼女は、無垢な童女のように目先の歓びや驚きに引き摺られて、刹那的な戯れを繰り返すことに熱中するだけの貧しい生活を堆く積み上げてきたのだ。椿は途方に暮れて、慌ただしい四囲の景色を見渡した。子煩悩の両親が誂えてくれた高価な振袖を生意気に纏って成人式を済ませ、時には擦れ枯らしの娼婦のように、若い男子の純情な恋心を無自覚に弄ぶ残酷な振舞いに手を染めておきながら、彼女は完全に成長の階段を踏み外していた。立派な志望動機を誇らしげに語り、真新しいスーツに身を固めて説明会を梯子する級友たちの勇姿は、嫌気が差すほど眩しく見えた。彼女が密かに嘲笑し軽蔑していた男子たちも、かつての愚昧な幼児性の衣裳を綺麗さっぱり脱ぎ捨てたような面持ちで、金融や商社やマスコミの業界分析を尤もらしく語り合い、一端の社会人予備軍の風貌を身に着けていた。フローベールの文学的革命性に就いて声高に論じていた沢村でさえ、今では専ら日経平均株価の推移や原油高の長期化や、日韓関係の悪化が齎す深刻な経済的影響ばかりに豊饒な語彙を費やし、男女の繊細な色恋沙汰など下らないと言わんばかりの冷徹で謹厳な面構えを誇示していた。こういう男に限って、仕事や家庭が落ち着いたら「ボヴァリー夫人」の悲劇など忘れ去って、退屈で矮小な不倫に溺れるに違いないと、椿は底意地の悪い省察の眼差しを番えて、沢村の脂ぎった横顔をこっそり射貫いた。
 しかし、他人の迅速で極端な変わり身を傍から嘲っているだけでは、椿自身には何の利得もない。どれほど無様な奔走に見えたとしても、生来の信条を抛って体制に順応する闇雲な努力が不潔に感じられたとしても、彼らは生き延びる為の行動を懸命に積み上げて、より良い未来を開拓しようと躍起になっている。その献身的な情熱を揶揄するのは寧ろ容易で、新宿の陋巷に低回する安逸な日々に埋没して時計の針を停止させていた椿に、滑稽な他人の姿を論難する資格など固より備わっていなかった。他人の生態を観察することに血道を上げる暇があったら、いい加減に観客席から飛び出して、自分自身の生活を真面目に設計すべきだろう。
 読書が好きだから書籍に関わる仕事へ、という短絡的な発想が頭を過り、出版社や新聞社や書店や、持ち前の興味と関連性の高い業種の求人を中心に検討して、柄にもなく徹夜を重ねてエントリーシートの記入に苦吟したり、友人と連れ立って大規模な合同企業説明会に足を運んだり、相応の努力を重ねたが、選考の段階では想像以上の苦戦が続いた。濫読を通じて血肉と化した豊富な文学的知識は、面接官との懇談を盛り上げる手頃な燃油の役割を果たしたが、単なる読書家の情熱だけで企業の門戸を抉じ開けることは実に難しいのだと、程なくして椿は悟った。彼らは営利を追求する峻厳な経済的軍隊の新兵を世間に広く公募しているのであり、奇特な御得意様と趣味的な茶話会を催す為に求人広告を打っている訳ではなかった。落第の報せが、タブレットの画面に夢と希望の亡霊の如く浮かび上がる度に、彼女の熱意はチーズのように削ぎ落とされ、自身の将来に関する見通しは、重篤な電波障害を蒙ったように掠れて見えなくなった。
 しかし、再び静謐な孤独の日々に回帰する訳にはいかなかった。たった一つの有り触れた失恋の苦しみを引鉄として、幼稚な遁走を際限なく繰り返すのは、椿自身にとっても本意ではなかった。彼女は濫読の嗜癖を一旦凍結し、剝き身の現実と直に触れ合って格闘することを己に命じた。