サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 10

「素敵なイヤリングだね」
 川崎辰彦かわさきたつひこの然り気ない賞讃は、事務的な会話の流れに極めて巧妙に織り込まれていたので、椿は一瞬、言葉の意味を掴み損ねた。そのとき椿の耳朶に揺れていたピンクゴールドのイヤリングは、亘祐と別れてから最初に迎えた七月の誕生日に、貯金を叩いて買った自分自身への激励と慰撫の象徴で、大事な外出の際には必ず身に着ける習慣だった。尖端に吊るされた小さなルビーの輝きは、彼女にとって護身のまじないに似た意味を帯びていた。その繊巧な深紅の宝石は椿の誕生石で、鏡に向かって傾き具合を微妙に調節しながら、化粧の仕上がりを念入りに確かめるとき、彼女の胸には微かだが堅実な勇気の萌芽が宿った。
「ありがとうございます」
「贈り物なの?」
「ええ。自分から自分へ」
「それは素敵なことだね」
 辰彦の言葉は、中空を彷徨う浮薄な魂のように、その輪郭が掠れて聞こえた。彼は小さな出版社の編集部員で、椿と同じ大学を十年前に卒業していた。老練な教授の紹介で、出版業界の内情や就活の秘訣などに就いて聞かせてもらうという名目の下に、二人は丸の内の静かな喫茶店に向かい合って陣取っていた。
「そんなに本を読むことが好きなのは、何故なの」
「さあ、分かりません。昔からの習慣です」
 年の離れた見知らぬ男性と差し向かいで、距離の測り難い応酬を重ねるのは余り居心地の良い時間ではなかった。昔の椿ならば、何も億劫がらず警戒もせずに歓んで相手の懐に深入りしていたかも知れないが、亘祐との離別によって齎された決定的な変貌が、彼女の顔に余所余所しく厳重な仮面を纏わせていた。そんなに敵対的な態度を取るのならば、そもそも教授の親切な厚意を拒んでおけば良かったのだが、捗らない就職活動の暗澹たる先行きに不安を懐き、業を煮やしていたのも、現状を打開する小さな契機を欲したのも椿自身であった。わざわざ時間を割いてくれた初対面の先輩に向かって、狷介な鉄仮面のような物腰で臨むのは筋が通らないと分かっていたが、一旦身に備わった頑迷な甲殻類の気質は容易に崩れなかった。まるで私は別人のようだと、椿は心の奥底で静かに苦笑した。過去との間に或る一つの重大な断層が走っていて、アイデンティティの滑らかな推移を遮っているのだ。こんな可愛げのない後輩の女の為に、本来の仕事を留保して成熟した社会人の役柄に徹し切らねばならない辰彦の苦衷を、椿は他人事のようにぼんやりと眺めていた。
 けれども、椿の眼に映じる限りでは、辰彦は彼女の露骨な警戒心や無愛想な閉鎖性を特段、気にも留めていないように感じられた。出し抜けにイヤリングを褒めてくる辺り、それが相手の法外な緊張を突き崩し和らげようとする年長者としての気遣いでなければ、単なる度し難い鈍感の証左かも知れないが、総てを察した上で敢えて素知らぬ顔を貫いているのであれば、要するに一人前の男だということになるだろう。自分の感情を制御し、相手の心情に土足で迂闊に踏み込まないこと。情熱的な口調で「胸襟を開く」ことの素晴らしさを声高に謳歌しないこと。知識や経験の非対称性を露骨に前提しないこと。直属の上司と部下であるならば兎も角、大学の看板以外に共通項のない間柄で、間違っても優越感を滲ませた傲慢な教師の仮面を歓んで被らないこと。
 これらの秘められた不文律に関して、辰彦の振舞いは完璧だった。彼は少しも尊大な態度を示さず、学生たちの間で頻繁に噂される、就活を利用した悪質な性的搾取(それを「ハラスメント」などという曖昧で滑らかな言葉に置き換える現代的慣習に、椿は昔から反発していた)の臭気を微塵も漂わせていなかった。端的に言って彼は、椿個人に対して何の好奇心も覚えていない様子だった。飽く迄も余分な業務の一環として、尚且つ恩師に対する義理を欠きたくないという私的な信条の帰結として、この場所に渋々居合わせているという印象を放っていた。却って椿の方が、変に気負った取り澄まし方を選んで無闇に強張っている自分の愚かさを思い知らされ、気恥ずかしくなってしまうような態度だった。
 彼は出版社の編輯部員(古式床しき「衰燈舎」では「編輯」という古臭い表記に執心していた)として働く生活が、聊かも特権的な栄光を担っていないという素朴な事実を、極めて淡々とした口調で強調した。彼の質素な勤め先は、俗世間を震撼するようなベストセラーとは無縁で、重厚で専門的な学術書や、余程の好事家でなければ決して手に取らないような異国の難解な小説を、高価な造本と挑戦的な装幀で包み込み、社会の日陰に向けて黙々と送り出す、余り報われない日々を積み重ねていた。心血を注いで取り組んだ高邁な叢書が、読者の手許へ届く以前に、多くの書店で配架すらしてもらえずに塩漬けとなる苦痛と屈辱を、辰彦は極めて克明に語って聞かせた。こんなに情熱を煽られない打ち明け話が現実に存在することを、椿は新鮮な気分で受け止めた。辰彦の穏やかな話術は、まるで彼自身の社会的履歴を酸化銀の如く黒ずませる為に編み出された、酔狂な自虐の技法のように感じられた。