サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 13

 喫茶店を領する雑多な物音、誰かの低い話し声や、洗い物の食器が触れ合う硬く軽やかな響きや、静謐な音量で流れる異国の言葉の楽曲、それらの緊密な重なりが育む生温い居心地の良さに包まれて、椿は透明な幸福の感情を咬み締めていた。殊更に意識しない限り、決して視野の前面には進み出て来ない、それらの微かな騒音の群れに、白く柔らかな皮膚を撫でられるのは奇妙な愉悦を伴った体験だった。そして彼女の関心の中心には無論、川崎辰彦の仄かに懶惰な表情が居座っていた。尤も、彼は露骨に気怠い雰囲気を滲ませて、法外な未来に憧れる世間知らずの少女(辰彦の年齢を考慮すれば、椿が「少女」の分類に属するであろうことは明白だった)の示す気高い憧憬を無遠慮に傷つけるような浅ましい振舞いとは縁遠かった。その密やかな倦怠は鄭重に梱包され、分厚い外装に覆われて、決して剝き身の無礼を働こうとはしなかった。彼は良くも悪くも世俗の不可解な慣習、長い伝統の重みに包まれた一般的な儀礼の扮装を弁えていたから、持ち前の気怠さは時折スーツの袖から垣間見える純白のワイシャツの片鱗のように、控えめな待機の姿勢を守っていた。辰彦の世慣れた礼節は、清潔な外見や白く滑らかな肌や綺麗に剃られた髭の微かな痕跡によって巧みに象徴されていた。だからこそ、その綺麗事の塊のような身振りの端々にうっかり見え隠れする無気力な本音の手懸りは、妙に色っぽく感じられた。夕映えの中で、一日の疲弊を吸い込んで育った無精髭の暗い繁茂が漂わせる油断のように、それは抑え込まれた魂の繊細な顫えを何よりも雄弁に物語っていると思われた。
「どうしてうちが良いんだろうね。何の希望もないって説明したと思うんだけどな」
 午前の眩しい光が出窓に飾られた無粋な観葉植物の、人工的な緑色に染まった大振りの葉の表を無言で浸していた。椿は咄嗟に返事に詰まって、何事かを真剣に考え込むような殊勝な態度を取り繕った。何故と訊かれて、即座に明快な返答を提示し得るほど、考え抜かれた堅牢な根拠が胸の裡に宿っている訳ではなかった。自分の記憶や経験を総浚いに掘り起こしてみても、衰燈舎という余り名の知られていない出版社に殊更に固執する理由は探り当てられなかった。要するに偶発的な「御縁」に導かれて、訳の分からぬ名状し難い情熱に囚われてしまったに過ぎない。端的に言って、若しも最初に出逢った衰燈舎の社員が辰彦ではなく、もっと垢抜けない粘着質の眼鏡男子だったり、針金のように痩せた灰色の毛髪を神経質に縮れさせた年配の男だったりしたら、こんな風に健やかな感情を伴って本気の志望に踏み切ることはなかっただろう。総ては運命的な偶然の差し金によって惹起された成り行きなのだと、心の奥底で椿は呟いていた。
「でも、楽しいことが何もなかったら、川崎さんだって続けていないんじゃないですか」
 疑い深く生意気な少女の仮面を装って、椿は聊か無礼な印象を相手に与えるように心を配った。単なる清純で夢見がちな少女に過ぎないと断定されるのは物足りなかった。仄かに蓮っ葉で我儘なニュアンスを、薄い頬紅のように閃かせて、辰彦の行き届いた社会的表情の欠片でもいいから切り取ってみせたかった。彼は唇の端を歪めて意味深長な笑いをほんのりと植物性油脂のように滲ませた。そのあっさりとした微笑みに入り混じる砂利のような苦さは、椿の好みに合っていた。
「妻子を養う為には、どうせ働かなきゃいけないからね。今の会社であろうとなかろうと」
「他の会社に移ろうと思えば、移れない訳ではないですよね」
「単純に面倒なんだろうね。それに、今の勤め先が嫌いという訳でもない」
「それは好きってことだと思います」
「どうかな。好きなものを選ぶ情熱より、嫌いではないものに寄り添うというのが、ここ数年の自分の傾向だと思ってるんだ」
「老化ですか」
「はっきり言うね。まあ、そういうことかも知れないね」
 淡々とした会話の備えている心地良いリズムが、椿の少し辛辣な物言いに機智の虚飾を被せていた。それは彼女が上機嫌であることの最大の証明だった。度し難く退屈な人間や生理的に堪え難い人間の前ならば、彼女は底意地の悪い毒舌すら厳格に倹約する習いだった。椿の知性が明晰な覚醒に襲われ、その犀利な鑑識の眼力が旺盛な食欲に駆り立てられるのは、彼女の内部に培われた恋心の健全な成長を示唆する表徴だった。
「私を雇ってくれませんか。雑用でも何でも文句は言いません」
 小生意気な啖呵を切って、椿は辰彦の双眸を直向きに睨み据えた。或いは、そうやって堂々と見凝める口実を拵える為に敢て、彼女は突拍子もない、厚かましい科白を吐いたのかも知れなかった。
「肝が据わった子だなあ。言った筈だよ。僕に人事権はないんだ」
「知ってます。でも、社長に直談判するよりは、礼儀に適っていると思います」
 一向に動じる気配を窺わせない椿の逞しい口吻に、辰彦は大袈裟に天を仰いでみせた。それが根負けの合図であることを、椿は明敏に理解してにやりと微笑んだ。