サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「テアイテトス」に関する覚書 1

 プラトンの対話篇『テアイテトス』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 「テアイテトス」の前半は、プロタゴラスの教説に象徴される「知識=知覚」の等式を反駁することに充てられている。この等式と、そこから導かれる「相対主義」(relativism)の言説が、プラトンの教説に正面から背馳する論理であることは明白である。「知覚」は「肉体」という生成的で流動的な存在と緊密に結び付いた「認識」の形態である。この「知覚」が齎す不安定な認識を「知識」と呼ぶことは、普遍的な「真理」の実在を要請するプラトンにとっては、受け容れ難い謬見となる。

 各自の「知覚」を「真実」と看做すプロタゴラスの理路は、否が応でも相対主義的な分断を形成してしまう。彼の理論に基づけば、個人の感覚の裡に生じる流動的な「現象」(phenomenon)の姿は悉く、事物の「実相」(eidos)の精確な反映として扱われる。「私」の見ている真実と「貴方」の見ている真実との齟齬は、客観的で超越的な審級によって是正されることはない。「現象」と「実在」を結び付けることの困難は、こうした相対主義の地獄を不可避的に析出してしまう点に存する。超越的な「真理」の不在を言い立てる者は、それゆえに生じる悲惨な帰結を受容する覚悟を固めねばならない。

 自分の内在的な感覚、主観的な認識を絶対的な「真理」として処遇すること、こうした相対主義的規範の齎すであろう弊害は枚挙に遑がない。「知覚=現象」を「真理」と等価であると看做すことは、要するに単一の「真理」を複数の「真理」へ分裂させることに等しい。だが、複数形の「真理」というものが成立し得るならば、それらが相互に矛盾するとき、我々は如何にして「真理」の内実を確定すればよいのだろうか? 複数の「真理」を統合する超越的な規範を想定しないとすれば、我々は永遠に妥結しない交渉の円卓を囲み続けることとなる。如何なる話し合いも、共通の利害や目標や理念によって統御され、調整されることがない。相互の融和的な「合意」の代わりに、一方的な「屈服」だけが議論の帰結として生み出される。それは相手の掲げる「真理」への面従腹背であって、全面的な信頼や共通の認識が培われた訳ではない。要するに極端な相対主義は、あらゆるコミュニケーションの断絶と、組織的な紐帯の離散を不可避的に惹起するのである。

 類的なコミュニケーションが成立する為には、必ず共通の認識的基盤の介在が要請される。銘々の主観的な感覚だけが真実ならば、そうした共通の認識的基盤を整備することは不可能である。この認識的基盤は、我々の主観的な感覚を超越した「真実」が存在するという見解の共有に基づいて形成される。外在的な「真理」を想定しなければ、我々の内部に生じる一切の認識は自動的に「真実である」と看做され、必然的に「正しい認識」と「誤った認識」という二分法は成立しなくなる。従って、我々の「認識」が発達したり退行したりすることも有り得ないということになり、如何なる哲学的探究も無意味な循環に過ぎないものとして処遇される。言い換えれば、相対主義的な論法を認めることは、哲学者にとっては致命的な自己否定を意味するのである。如何なる認識も自動的に「真理」として扱われるのならば、つまり「虚偽の認識」というものが有り得ないのならば、そもそも人間は賢明であったり愚昧であったりすることも出来なくなる。我々は如何なる認識に囚われているときでも無条件に「正しい認識」の所有者として認められる。それは要するにプラトニックな「真理」の概念を廃絶することに等しい。

 プラトンの批難する「弁論術」(rhetorike)の遣い手たちは、こうした相対主義的な地獄の中を巧みに泳ぎ回る。彼らにとって「真理」の概念が複数形であることは、聊かも不都合を齎さない。彼らが求めるのは普遍的で絶対的な「単一の真理」ではなく、聴衆の眼に映る相対的な「正しさ」の姿形である。狡猾な弁論家たちは、聴衆の欲望の構造に即して可塑的な「正義」を造形し、それによって間接的な権力を掌握する。他者の心理を操ることに長けた人々は皆、こうして相手の魂を誘惑し、結果として聴衆の惜しみない称讃を集めながら、彼らの頭上に王者として君臨する。聴衆の欲望の種類が豊富であるならば、それに応じて形成される「真理」の種類も自ずと豊富になる。言い換えれば、狡猾な弁論家たちが聴衆に賦与するのは絶対的な「真理」ではなく、聴衆によって「真実」であると期待されたものを実際に「真理」として正当化する巧みな言説なのである。そうした振舞いを、プラトンは「迎合」と呼んで糾弾する。弁論家たちが語るのは、常に揺るぎない単一の「真理」ではなく「真理に似た何か」であるに過ぎない。「真理の幻影」或いは「真理の写像」を巧緻な弁舌によって織り成すこと、それは「弁論術」(rhetorike)ではあっても決して「哲学的問答」(dialektike)とは認められない。

テアイテトス (光文社古典新訳文庫)

テアイテトス (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:プラトン
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2019/01/08
  • メディア: 文庫