サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「誘惑」に就いて

 私の職場は女性が多く、色恋沙汰に関する悩み事や様々な見解などが日常的に飛び交っている。結婚や出産も含めて、そうした性愛的な事柄に関するスタンスは人によって千差万別であり、趣味嗜好も実に多様である。先日は「色気とは何か」ということが話題に上った。既婚者であれ独身者であれ、そういう問題に執拗な関心を寄せる人というのは珍しくない。我々は良くも悪くも自由主義的な競争原理に従って生きている。性愛的な領域においても、そうした自由主義的な競争原理が猛威を揮うことは避け難い。「色気」に関する適切な知見を得ることは、より善く生きることと密接に関連する問題なのだ。

 性愛の相手を得る為に様々な訴求を行なって、愛情を勝ち得ようと試みることは、人間に限らず、あらゆる生物が日常的に取り組んでいる普遍的な営為である。動かない植物でさえ、美しい花弁を咲かせることで昆虫を誘惑し、花粉を運ばせて繁殖に結び付けようと躍起である。孔雀が絢爛たる翼の紋様で求愛するのも、人間が華美な衣裳で着飾って他者の注目を集めようとするのも、基本的には同質の現象である。

 性愛の快楽を共有すること、これは多くの人間が生得的に持ち合わせている本能的な衝迫だが、その意味するところは必ずしも明確に定義されていないように思われる。多くの場合、それは単なる純然たる肉体的快楽の獲得だけを企図している訳ではない。肉体的な快楽の共有、相手の存在を生々しく実感することの歓喜、こうした要素に人々が惹かれるのは、煎じ詰めれば濃密なコミュニケーションへの欲求に促されている結果ではないかと考えられる。快楽への期待が、人を生殖的な行為へ駆り立てることは確かに一つの事実だ。だが、その束の間の快楽が、人間の精神に対して持っている暗喩的な「意味」を捉えなければ、性愛に惹かれる心理の秘密を解明したことにはならない。

 端的に言って生殖的行為は、極めて無防備な状態で行われる。それは常日頃、慎重に蔽い隠されている自己の内奥を開示することに等しい。当然、剥き出しにされた自己の内奥は極めて繊弱で傷つき易く、非道な暴力に晒されれば存在の根幹を損なう深刻な痛手を蒙ることとなる。従って一般に性行為は、不特定多数の人間と行なうべきものではないと考えられている。危険な人間と性行為の時間を共有することは、場合によっては致命的な惨劇を齎しかねないからである。

 保身に対する欲求の強い人間は、自己の内奥を他者に開示することに心理的な抵抗を覚え易い。自己の内奥、言い換えれば「魂」(psyche)の開示は、他者の齎す危害への無抵抗を含意しているからだ。必然的に彼らは禁欲的な振舞いを心掛けるようになり、性行為の時間を共有する相手の選定に関して、峻厳な基準を設けることとなる。結果として彼らは「色気」と呼ばれる性愛的な魅惑の力を抑制し、他者の官能的関心を喚起することを回避するようになる。一般に「色気」の稀薄な人間は、異性の趣味が厳格で、容易には他者に心を許そうとしない。「魂」の開示によって致命傷を負うことを何よりも危惧するからである。彼らは他者を誘惑せず、相手の誘惑に応じようとも考えない。

 逆に言えば、所謂「色気」の濃密な人間は、他者に向かって「魂」の開示を行なうことに積極的であり、心理的な傷痍への耐性が堅固であると考えられる。「誘惑」とは要するに「魂」を開示するよう他者に促す表現を含んだ一連の行為である。彼らは「魂」の相互的な開示、換言すれば「魂の共有」を積極的に欲し、その機会を獲得することに熱心である。心理的傷痍への危惧よりも「魂の共有」に対する欲望が優越しているので、他者の欠点に対する苛烈な問責よりも、その美質の評価を重んじる傾向が強い。保身的な人間は他者の重大な欠陥を看過することを懸念するが、開示的な人間は寧ろ、欠陥に拘泥することで他者の美質を看過する事態の方を懼れる。従って開示的な人間の嵌り易い陥穽は、相手の美質を過大に評価して、その欠点を見落とし、思わぬ痛撃を蒙るような事態であると言える。他方、保身的な人間を待ち受ける陥穽は、狷介な孤独への逼塞である。彼らは他者を容易に信頼せず、仮に信頼したとしても、相手の欠陥に着目する頻度が高いので、円満な共有関係を長期的に維持することに困難を覚え易い。「魂の共有」に到達する頻度も持続性も、共に低下せざるを得ない。

 従って「色気の有無」に関するパラメータは、当人の性愛に関する「開示性=閉鎖性」のパラメータに比例すると考えることが出来る。開示的な人間は「色気」が高まり、閉鎖的な人間は「色気」が低下すると言い得る。開示的な人間は「誘惑」の応酬を好み、その過程を通じて「魂の共有」へ到達することを歓ぶ。閉鎖的な人間は「誘惑」を嫌悪し、軽率に「魂の共有」を求めることで蒙るかも知れない心理的傷痍の排除を何よりも優先する。また、開示的人間の審美的基準は寛容であり、閉鎖的人間のそれは峻厳である。開示的人間の審美的基準は、その包摂する範囲が広く、対象に課せられる条件も少ない。他方、閉鎖的人間の審美的基準は極めて厳格で、対象に課せられる条件は非常に厖大である。開示的人間は、実に多様な人々との「魂の共有」を期待するが、閉鎖的人間は、少数の限定された種族との間でしか「魂の共有」が行われることを望まない。

 「恋愛」と「結婚」の相違点は、こうした見地から眺めることで、より一層鮮明になるのではないかと思われる。「恋愛」においては「開示性」が、「結婚」においては「閉鎖性」が重要な価値を示す。何故なら一般に「結婚」の規約は、複数の相手との間に性愛的な「魂の共有」が生じることを禁じているからである。従って限定された単一の相手との間に「魂の共有」を営むことを望む性愛的な閉鎖性は、必然的に「結婚」の原理と合致し易い。但し、この閉鎖的な性向が極端に亢進すると、配偶者に対する依存が過度に強まり、彼らの関係は、公共的な客観性を欠くようになる。

 「恋愛結婚」に附随する構造的な困難は、本来ならば異質な原理に基づいている独立的な営為を、単一の原理によって統合しようとする方針に由来していると言える。つまり「結婚」の条件として「恋愛」の成立を要求する社会的規範は、性愛的な「閉鎖性」の条件として「開示性」を要求するという屈折した論理を含んでいるのである。こうした逆説的構造は、結婚に向いている人間を結婚から疎外したり、或いは結婚に向いていない人間を結婚へ促したりする。しかし、単純に「恋愛」と「結婚」を分離したとしても、様々な問題が一挙に解消される訳ではない。当事者の合意に依拠せず、他律的な規範によって伴侶が決定される旧弊な婚姻の制度を復権させたところで、開示的人間が「魂の共有」に就いて寛容な基準を持ち、閉鎖的人間が峻厳な基準を持つという現状は変更されない。開示的人間は、如何なる相手と婚姻しても円満な関係を築き上げる可能性が高いが、同じ理由で、複数の相手と「魂の共有」を図ろうとする懸念を排除し得ない。閉鎖的人間は、望まない相手との婚姻に適応出来ない虞が強く、それゆえに配偶者以外の誰かと「魂の共有」を実現しようと試みて、不倫という形式へ陥る危険を孕む。何れの場合にも、彼らが性愛的な「魂の共有」を抑圧される見込みは大きいのである。それならば「恋愛結婚」という様式を認めた方が、未だしも合理的な判断であると言えるだろう。