サラダ坊主日記

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プラトン「テアイテトス」に関する覚書 2

 プラトンの対話篇『テアイテトス』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 「知識とは何か」という聊か抽象的な設問は、哲学という根源的思考の領域においては、安易に忌避することの出来ない難問である。「知識」という言葉自体は、我々の日常的な生活に悠然と溶け込んでいる。殊更に、その厳密な定義を試みる必然性に支配されるような局面は、頻繁には訪れない。だが、そういう平凡な言葉ほど、精密な解析を施そうとすれば、途端に無明の奈落へ投げ込まれるのが通例である。我々が日常的に用いる言語は、それ自体で独立して働いている訳ではない。様々な非言語的情報と文脈に補助されて、その時々で多様な意味を含み得るのが、日常的な言語の特質である。我々は普段、言葉というものを専ら道具のように扱っている。差し当たり、生活の用が足りれば構わないと安直に考えて、言葉に粗雑な虐使を強いるのが一般的な慣習なのだ。

 けれども、不鮮明な言葉は不鮮明な思考を齎す。曖昧な言葉は曖昧な思考を増殖させる。この悪習を放置すれば、我々は加速度的に、言葉の恣意的な濫用と、相互的な曲解の深みへ陥って逃れられなくなるだろう。同じ単語であっても、我々は各自、それらに異なる含意を背負わせて、四囲に向かって放流する。差出人の考える定義と、受取人の考える定義は、見事に重なり合わないことの方が多い。両者の齟齬は、本来ならば「認識の共有」に際して重大な支障となるべきものである。だから、我々が精確な「認識の共有」を求めるのであれば、用いられる言語の定義は明晰でなければならない。同じ一つの事象を指し示す場合でも、人はそれぞれ異なる言語的表現を充当する。

 言語の定義に関するこれらの問題は、所謂「相対主義」(relativism)に関する問題と通底している。極端な相対主義は、言語の定義に関して個人の主観的な裁定を全面的に支持する。一つ一つの単語が如何なる意味を含むかという問題に就いて、個人の恣意的な裁量を悉く承認するのが、相対主義の考え方である。無論、現実の世界において、言葉の意味が個人によって異なるのは有り触れた現象である。けれども一般的に、そうした相対性の容認は、言葉の規範的な意味を全面的に否認するものではない。若しも言葉が如何なる規範的意味も持ち得ないとすれば、あらゆる言葉は主観的な独白となり、人間は自分以外の誰かと対話する為の重要な媒体を失ってしまうことになる。

 尤も、或る単語の意味が規範的であると看做される場合、我々はその規範的性質が適用され得る範囲に就いて、精確な測定を怠ってはならない。辞書の語釈だけが、我々にとって唯一の規範的意味であるとは限らない。例えば、所謂「隠語」は、特定の集団の内部においてのみ、規範的性質を帯びる言語的体系である。集団に属さない人間に向かって、隠語の規範的性質の共有を期待するのは、合理的な振舞いではない。

 プラトンの提唱する「ディアレクティケー」(dialektike)においては、主題となる単語の明晰な定義が重視される。そもそも彼の展開する精緻な議論の総体そのものが、或る単語の厳密な定義の過程であると看做すことも可能である。一つ一つの言葉が指し示す「意味」を厳密に確定する為に、精緻な論証を通じて一定の合意に達することが「ディアレクティケー」の本質的な意図なのである。

 「テアイテトス」において、プラトンは「知識」という言葉の実質を探究する。「知識」という言葉が指し示す対象の本質的な姿を究明すること、それは常に事物の「実有」(ousia)を把握しようとする「ディアレクティケー」の原則に合致する営為である。「知識」という概念から、偶有的な要素を除去し、夾雑物を洗い流して、純然たる「知識」の「実有」を明示する為の言語的応酬が、この対話篇の主旨である。プラトンの哲学は常に、こうした「言語的蒸留」とでも称すべき過程によって構成されている。

 「テアイテトス」の前半において、詳細な審査の主題となるのは「知識」を「知覚」と同一視する議論の整合性である。所謂「プラトニズム」の体系において、人間の「知覚」は、絶えず生成変化を繰り返す不確定な存在としての「肉体」に属するがゆえに、決して生成変化することのない普遍的な「真理」を把握することが出来ないと看做される。こうした「生成」と「実在」の区別は、プラトンの提示する総ての議論を支える礎石となるものである。彼の考えでは、事物の「本質=真理=実在」は一つの連環を成している。実在するものだけが、その事物の「本質=真理」に相応しいと看做されるのである。一方の「生成」は絶えず流動し、変異し、決して首尾一貫した本質的要素を堅持しない。言い換えれば、生成するものに就いて、その「本質」を定義することは不可能なのである。「本質」と思しき要素を特定したところで、それは時間的な遷移の過程で失われるかも知れない。例えば太陽の光は、時刻や天候に応じて千差万別に色彩を移ろわせる。そのとき、橙色の光や深紅の光を、日光の本質的な特性として定義することは出来ない。日光が常に橙色や深紅の状態に留まり続ける訳ではないからだ。プラトンの考えでは、事物の「本質=真理」は、必ず「常住」の性質を備えていなければならない。そしてプラトンにおける「認識」という概念は、こうした事物の常住する性質を厳密に把握することを指しているのである。

 「生成」に関する認識は、事物の偶有的な側面だけを捕捉している。従って「生成」に関する認識の裡に留まり続けることは、事物の「本質=真理」の把握から遠ざかることを意味している。そして肉体的な「知覚」は正に、専ら「生成するもの」として顕れる。言い換えれば、肉体的な「知覚」は、それ自体が常に一つの生成的な現象であると看做されるのである。「知覚」は「認識」の種類であるというよりも、寧ろ「認識」の「対象」に他ならないのだ。

 諸々の生成的な現象の裡に、普遍的な「実相」(eidos)を見出さない限り、我々の思考は単なる受動的な現象の連鎖であることを免かれない。「知覚」という現象、古代ギリシア語で「アイステーシス」(aisthesis)と呼ばれる現象を、そのまま事物の「本質=真理」に関する「知識」と看做すのは、自らの思惟を生成界の原理に埋没させることに等しい。

 アイステーシスは、各自の肉体の内部で生滅を繰り返す流動的な現象である。それを「真理」として遇することは、即ち「真理」の複数性と相対性を容認することに他ならない。その都度、局所的な法則や経緯に導かれて生起する一つの認識を「真理」に擬することは、つまりアイステーシスの内容をそのまま「真理」として認めることは、プラトンの基礎的な定義に反して、時間的に遷移し変容する「認識」を「真理」として取り扱うことに等しい。それは「真理」の夥しい分裂と飛散を含意する。自己の認める「真理」と他者の認める「真理」との間に齟齬が生じること自体が、こうした「相対主義」(relativism)の主要な弊害なのではない。問題は、こうした齟齬が生じた場合に、両者を共通の認識と合意へ導く手段が棄却されてしまうという点に存するのだ。共通の「真理」というものが有り得るという前提を排除してしまえば、仮に我々が「認識」の共有に至る場合があったとしても、それは偶発的な事象に過ぎないということになる。それはプラトンの信奉する「ディアレクティケー」の存立する理論的根拠の破綻に等しい。プラトンが他者との問答を重視するのは、そもそも「真理」という概念が「万人に妥当する普遍的事実」として定義されている為である。各自の主観的認識(アイステーシス)の絶対的な正しさを認める相対主義の寛容な性質は、却って人々の間に絶望的な断絶を形成してしまう。「真理=正義」を共有しない限り、人間は相互に連帯することが出来ない。アイステーシスの絶対化は不可避的に、そうした連帯の可能性を根本から壊死させてしまうのである。

テアイテトス (光文社古典新訳文庫)

テアイテトス (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:プラトン
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2019/01/08
  • メディア: 文庫