サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

観照的主体への怨讐 三島由紀夫「月澹荘綺譚」

 プラトンの『テアイテトス』(光文社古典新訳文庫)を繙読するのに草臥れたので、久々に三島由紀夫の小説に就いて書く。取り上げるのは「月澹荘綺譚」(『岬にての物語』新潮文庫)である。

 この小説は、三島由紀夫という作家が繰り返し自作の主題に挙げてきた「認識と行為の相剋」という重要な問題の構図に基づいて書かれている。侯爵家の嫡男である照茂という貴顕の人物は、完全に「行為」から切り離された、純然たる「認識」の所有者として定義され、描写されている。プラトニックな「観照」の原理の裡に逼塞した人間という形象は、三島の遺した最高傑作である「金閣寺」においても主要な旋律を占めている。

 古代ギリシャの哲学者プラトンは、その厖大な対話篇の数々を通じて「実在」と「生成」の区別を重んじた。彼は単一の普遍的な「真理」を擁立し、事物の超越的な「本質」を措定すると共に、我々の肉体的な感官が捉える地上の経験論的な現実を「真理」の「不完全な模像」として位置付ける論理的な操作を完成した人物である。尤も、プラトンの思想においては、こうした普遍的な「真理」は決して肉体的な感官を通じて把握されることはなく、専ら知性的な思惟によって認識される対象として厳格に定義されている。しかし、三島由紀夫神秘主義的な性質は、こうした厳密な分断を性急に飛び越えようと欲する強烈な衝動に支配されている。彼は極めて犀利な知性の持ち主でありながら、純然たる知性的思惟の裡に留まることを絶対に承服しようとしない。彼は肉体的な感官を通じて、超越的な「実在」としての「イデア」(idea)に到達し、融合することを切実に希求し続けたのである。

 だから、三島由紀夫の小説には純然たる知性的な哲学者、プラトニックな観照に安住し続ける人間は滅多に登場しない。仮に顕れたとしても、例えば「志賀寺上人の恋」(『岬にての物語』新潮文庫)のように、その澄明な思弁的超越の境地は、肉体的な感官の誘惑によって転覆を強いられる。照茂の場合も、彼の挙措は感覚的な認識への異常な執着に占有されており、地上の経験論的な現実を離れて純然たる思弁的な世界へ飛翔するようには描かれていない。彼は専ら「見ること」の快楽に酔い痴れ、溺れている。生成的な現実に属して、自らその一部を構成することを拒否し、異様な熱心さで現実を外側から眺める実存的様態に固執し続けている。

 こうした照茂の振舞いは、それよりも遥かに稀釈された状態で、他の作品にも投影されている。「貴顕」という作品に登場する柿川治英もまた、外界の現実に対して独自の距離を保ち、芸術的な創造よりも「鑑賞=観照」に傾く人物として描かれていた。こうした生き方の類型そのものに、三島は「貴顕」という言葉を与え、象徴させているのだろうか。彼らは「行為」という具体的で生成的な現象の世界を冷ややかに眺め、その一切合切を「認識」の次元で把握し、処理し、解決し、支配している。それは必ずしもプラトニックな思弁への挺身を意味しないが、何れにせよ生成的な現実と対置されるべき実存の形式であることに変わりはない。そして三島は幾度も作中にて、こうした超越的な観照の主体が、生成的な現実を駆り立てる酷薄な論理によって報復される局面を描いているのである。

「それはあやまって滑り落ちたのかもしれないのに、どうして君江がやったこととわかったのですか」

「それはすぐにわかりました」と老人は断定的に、はじめて示す神経質なきびしさを語気にこめて、言った。「少くとも私にはすぐにわかりました。殿様の屍体からは両眼がえぐられて、そのうつろに夏茱萸の実がぎっしり詰め込んであったのです」(『月澹荘綺譚』新潮文庫 p.390)

 照茂は君江によって、最も致命的な復讐を蒙る。プラトンが肉体的な感官の裡で最も優越的な地位を「視覚」に授けたように、照茂が際立って偏愛した「見ること」の特権的快楽は、眼球を抉り取るという凄惨な手段によって徹底的に毀損されている。「志賀寺上人の恋」においては、超越的な思弁の境涯が、肉体的な享楽の誘惑によって破壊された。そして「月澹荘綺譚」においては、感性的な観照の享楽が、生成的な現実に属する「行為」によって弑逆された。あらゆる超越的理念を、生成的な現実の裡に引き摺り下ろそうとする三島の執念は、例えば「金閣寺」における「放火」の惨劇の裡にも表象されている。それは彼が「超越」を忌み嫌ったことの帰結ではない。寧ろ余りに「超越」を愛し過ぎたがゆえに、それが自分の手の届かない領域に超然と君臨し続ける現実的構造に堪えられなくなってしまったのだ。絶対的な「美」が常に超越的な位相の裡に存在するというプラトニックな秩序を、三島の肉体的な欲望は絶えず蹂躙しようと足掻き続けたのである。

岬にての物語 (新潮文庫)

岬にての物語 (新潮文庫)

  • 作者:三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/12
  • メディア: 文庫