サラダ坊主日記

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プラトン「テアイテトス」に関する覚書 3

 プラトンの対話篇『テアイテトス』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 「テアイテトス」の前半で問われるのは「知識=知覚」という公理は正しいのかどうかという論題である。それに伴って「ディアレクティケー」(dialektike)の法廷に登場するのが、ヘラクレイトスに由来する「万物流転」(panta rhei)の思想である。

 この「万物流転」という思想は、事物を「実在」ではなく「生成」(generation)として捉えることを基本的な原則として採用している。そして「生成」の過程には、それを支配する一定の法則が関与していると看做される。万物は生成し、その生成には何らかの原理が内在すると考えることは、プラトンの思想と如何なる共通項を持ち、同時に如何なる相違点を持つのだろうか。

 感覚に映じる限りの事物が、時間的な枠組みの中で無限に「生成」を繰り返していることは経験的な事実である。「テアイテトス」において提示され、検討される「万物流転」の学説は、こうした「生成」に肯定的な価値を認めている。「生成しないこと」は悪しき「停滞」であり、それは自然の根源的な摂理に反するものであると看做される。言い換えれば、ヘラクレイトスの学説は「存在」或いは「実在」という観念の排撃を含んでいるのである。

 こうした考え方が、プラトニックな実在論と対蹠的な方針に裏打ちされていることは明瞭である。プラトンは、時間を超えて維持される普遍的な「実在」こそ事物の「本性」(ousia)であると考え、生成的な知覚が正しく精密な「認識」であるという見解に異議を唱えた。「感覚=生成」の認識に対して「知性=実在」の認識を提示すること、これがプラトンの学説の摘要である。

 我々の「知覚」が把握する夥しい情報は、絶えざる「変化」の裡に置かれている。その「変化」の程度は、事物の個別的な特性や四囲の環境によって様々であり、我々の感官が事物の「変化」の一切を完璧に把握する力を備えている訳でもない。だが、何れにせよ我々の「知覚」は、事物の「変化」を捉える為に発達を遂げてきたと看做すべきである。若しも我々の暮らす世界が如何なる種類の「生成」とも無縁であったならば、我々の肉体は「知覚」という精密な機構の発達を必要としなかっただろう。

 プラトンの学説は、事物の生成的な変容を「幻影」として処遇することで成立している。若しも「知覚」が「認識」の正しい様式であるならば、我々は何らかの具体的な「事物」(existence)に関して長期的に考えたり論じたりすることは出来ず、只管に「現象」(phenomenon)の追跡と記述に従事することになるだろう。万物が絶えざる「流転」を強いられているのならば、或る事物を無時間的な仕方で、恒常的な実在として取り扱うことは不可能である。言い換えれば「知覚=感性」という認識的様態に課せられた役割は「生成の把握」であり、若しも如何なる「生成」も営まれないのならば、我々の「知覚」はその使命と責務を喪失するのである。

 他方、我々の有する「知性」は、感覚を通じて把握された生成的で流動的な「現象」を「要約する」機能である。それは絶えざる変異と流転の裡に置かれている厖大な「現象」を停止させ、固定的な「実在」の位相を賦与する。言い換えれば「知性」とは「同一性」を発見し、定義し、創出する認識的な機能の一種なのである。それは絶えざる「生成」を繰り返す不定形な「現象」に確乎たる輪郭を与え、時間が経過しても失われることのない共通の普遍的な要素を定義する。こうした過程そのものを、恐らくヘラクレイトスは「ロゴス」(logos)と呼んだのである。けれども、プラトンは知性を通じて形成される認識的対象としての「事物」を実体化し、感性を通じて得られる諸々の雑駁な現象を「幻影」と看做した。彼の独創的な革命性は、こうした「ロゴス」の実体化によって開拓されたのである。

 「知覚」に対するプラトンの否定的な見解は、彼の信奉する極端な「主知主義」(intellectualism)の必然的な反映である。「知覚」そのものの裡には、生成的な現象を把握し、保存する機能しか備わっていない。そして「知性」の機能は、感覚を通じて収集された厖大な記録の裡に「同一性」や「規則性」を読み取る。言い換えれば、知性は絶えず遷移し流動し続ける連続的な現象に切れ目を入れて、それを一つの単位に纏め上げて固定化するのである。

 プラトンは「知覚」そのものを「現象」の一種として捉えている。つまり、肉体的な感官を通じて把握される知覚的な認識自体が、絶えざる生成の一時的な断面図として構成されるのである。従って知覚的な認識は決して普遍的な持続性を保ち得ない。生成の特徴は、普遍的な持続性の欠如の裡に存するからである。この「生成」を「存在」に置き換える為には、我々の知性は「生成の停止」を個々の事物に向かって命じなければならない。無論、それは「生成」そのものを物理的に停止させるという意味ではない。認識的な領野において、事物の無際限な「生成」を黙殺し、記憶と知覚を照合して、共通する要素を普遍的な同一性として認め、それを事物の「本質」として定義するという意味である。何らかの認識的な対象を「定義する」という行為は、本来ならば絶えざる「生成」の裡にあって、無限の変異を重ね続けている事物に関して、変異しない要素を仮構する作業である。つまり「生成しないもの」だけが、事物の普遍的な「本質」として認められ、その事物を構成する揺るぎない特徴として定義されるのである。こうした作業は、絶えざる流転を強いられる「知覚」の内部によっては行われない。夥しい数の知覚的な情報を俯瞰し、高い次元から一望して相互に比較し、それぞれの間に同一性や差異性を読み取る知性的な過程が必須である。そうした作業を通じて見出された事物の「本質」を超越的な「実在」として処遇するのがプラトニズムの基礎的な方針である。彼は「生成」を「仮象」として取り扱う。通俗的な経験論が、感覚に映じる事物を「実在」と看做し、そこから導き出される諸々の法則や関係性を「仮象」と看做すのとは対蹠的な仕方で、プラトンは「仮象」の意味を書き換えているのである。

 感覚を通じて把握されないもの、言い換えれば知覚的な認識に含まれないものを「実在」として遇すること、これがプラトンの思想の根幹を成す重要な規約である。それは言い換えれば「知覚=アイステーシス」(aisthesis)による認識を虚妄として排斥し、専ら「知性=ヌース」(nous)による認識を「実在」に関する知として承認する立場である。「知覚」を通じて得られる生成的な認識は悉く不正確な「錯覚」(doxa)に過ぎず、事物の本来的な「実相」(idea)からの離反に他ならないというのが、プラトンの堅固な信念なのである。

 このように考えるならば、少なくともプラトンの立場から眺める限り、肉体的な「知覚」によって得られた認識を、堅牢で精密な「知識」(episteme)として取り扱うことは欺瞞に他ならないという主張が導き出される。プラトンが「知識」という言葉に担わせている意味は、瞬間的な現象に関する知覚や記憶を指すものではない。彼にとって「知識」とは、如何なる局面においても適用し得る普遍的な認識、即ち「真理」を示す概念なのだ。そして「知覚」が「存在」ではなく「生成」に関する認識であると同時に、それ自体が一つの「生成的過程」に他ならないことを考慮すれば、人間と事物の間隙に生じる暫定的で流動的な「知覚」を「真理」と結び付けるプロタゴラスの「相対主義」(relativism)は、紛れもない謬見であるということになる。若しも知覚的認識が常に正しいのであれば、我々は殊更に「真理」などという超越的な理念を発明する必要には迫られないし、そもそも各自の有する「認識」の真偽や深浅を判定する基準さえ樹立し得ないということになる。従って、優れた知識の持ち主が蒙昧な人間を教育するという過程も原理的に成立し得ない。

 無論、知覚的認識の排撃と極端な相対主義が一律に合致すると看做すことは精確ではない。問題は「知覚=知識」という短絡的な接続の裡に胚胎している。同時に、プラトンの「生成」に対する執拗な攻撃は、ヌースによって見出された事物の本質を実体化する思想的な「擬制」に由来していると言える。観察や実験を重んじる経験論的な実証主義者たちも、決してヌースの役割を過小に評価している訳ではなく、知覚を通じて得られる認識を無条件に正当化している訳でもない。科学者たちは、不規則に見える生成的な現象の裡に、ヌースの力を駆使して普遍的な「ロゴス」を読み取ろうと厖大な努力を積み重ねてきた。同時に感覚の及ばない領域に関しては、整合的論証の技術を用いて、適切な仮説を構築することに相当な労力を支払ってきた。「知覚=知識」という等式が成立しないからと言って、反動的に「知識」の定義から「知覚」を除外する必要はない。プラトンの思想は「ヌースの絶対化」という聊か秘教的な「理性主義」(rationalism)の成分を潤沢に含有しているのである。

テアイテトス (光文社古典新訳文庫)

テアイテトス (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:プラトン
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2019/01/08
  • メディア: 文庫