サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「サラダ坊主日記」新年の御挨拶(2020年)

 謹賀新年。毎度お馴染みサラダ坊主でございます。本年も何卒宜しく御願い申し上げます。

 過去の慣例を顧みると、念頭には必ず気鬱な仕事の愚痴を垂れ流すのが常態と化していて、同じ芸を繰り返すのも進歩のない話だと思い、今年は余計な泣き言は控えておくことに決めた。世間が大型連休を寿いで、飲めや歌えの狂宴に明け暮れるのを尻目に、彼らの酒肴や馳走を誂えるべく、日々払暁から働き出して、夜の十時過ぎに家へ帰り着く毎年の通例に、今更愚痴を並べようとは思わない。例年と比較して、随分と割り切った覚悟の固め方で課せられた業務に精励したと自負している。泣き言や文句を列ねる暇があるならば、歯を食い縛って夢中で働いた方が余程気分は清々しい。良くも悪くも自分で選んだ稼業なのだから、その稼業に付き物の苦労を厭うのは筋違いではないか。

 愛娘が生まれて直ぐに千葉市へ越して、今の店舗に赴任してから、新年を迎えるのは四度目である。生憎、入居する館が元旦営業という無慈悲な原則を一向に革めようとしないので、この四年間、元旦に休んだことは一度もない。最初はそれが恨めしく、心身の疲労も一入であるように感じられたが、慣れてしまえば平気なもので、元旦の勤務に就いて怨嗟の科白を並べ立てようとも最早考えない。誰かが引き受けねばならない役割が、偶々自分の双肩に圧し掛かっているというだけの話で、持ち場を選り好みするのは青臭い素人の考えである。毎晩、米麹の甘酒を温めて飲み乾す習慣が奏功したのか、肉体的な疲労は割合に軽微であったから、後は精神的な脆弱さを叩きのめせば完璧である。苦痛は嫌がるほどに重さを増す。苦痛に親しむならば、それは苦い良薬のように精神を鍛え、滋養を与える。

 昨年は三島由紀夫の短篇小説を渉猟しつつ、プラトンエピクロスセネカといった古代ギリシャ・ローマの思想家たちの遺した典籍に触れる機会を多く持った。自分の視野の狭さ、知識の乏しさ、頭の悪さを補う為に、先賢の遺訓に縋ろうと、珍しく殊勝な心意気を燃え立たせたのだ。実際に始めてみると、案外に充実した時間である。

 哲学書というのは、予備知識を持たずにいきなり飛び掛かって捻じ伏せられるほど容易くない。否、それは哲学書に限らず、あらゆる領域の文化に共通して言えることなのかも知れない。デカルトであれ、スピノザであれ、ヘーゲルであれ、ハイデガーであれ、デリダフーコードゥルーズであれ、彼らの樹立した独創的な知見の根底には必ず、古代ギリシャの思想家たちに関する読解の成果が横たわって、肥沃な土壌の役目を担っている。全く何もない虚無の場所から、彼らの叡智が醸成された訳ではない。それは如何なる人間も親を持たずに生まれることが出来ないのと同じ理窟である。つまり、物事には必ず歴史的な「系譜」(genealogy)というものが関与しており、その形成の過程を踏まえずに最新の断片だけを眺めるのは、途中の計算式を理解せずに最終的な答えだけを眺めるようなもので、一向に対象に就いての本質的理解が深まらないのである。文学に関しても同様で、無作為な濫読は単なる移り気な流謫の境地を育むばかりであり、様々な作品の相互的な関係性や歴史的な伝統の系譜を把握しない限り、理解は表層的な代物に留まる。三島由紀夫の小説を悉く踏破しようという私的な企図も、こうした問題意識に基づいており、ただ「金閣寺」だけを読んで、それを理解しようとするのではなく、その他の作品も軒並み通読することで、色々な「参照」(reference)の根拠を確保したいという狙いがあった。

 このように考え出せば、凡そ人間に関することで、知らなくてもいいことなど一つも存在しないのではないかと言いたくなる。文学も哲学も、政治も経済も、倫理も習俗も、同じ人類の活動の様態なのだから、相互的な聯関が全く存在しないと考える方が不自然であり、何れの分野も煎じ詰めれば、この世界の全体に関する「知」(episteme)への欲求と衝迫に支配されている点では変わりがない。仏教における「縁起」の学説のように、世界に関する一切の知識は相互に影響を及ぼし合い、生成的な関与を無限に累積しながら、巨大な体系を築き上げている。何かを知ることは、必然的にその他の認識への連絡を促すものなのだ。

 或る知識を、純然たる卑近な実用性の尺度に基づいて、意味があるとかないとか論じるのは視野狭窄の振舞いである。自分の身の周りの狭い世界に関する知識にしか興味を寄せないのは、怠惰で退嬰的な態度である。そういう悪しき未来を排する為にも、粘り強く読書に取り組みつつ、日々の生業に関しても真摯に情熱を燃やし、年月の経過を豊かな稔りで潤していきたいと思う。