サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

廣川洋一「ソクラテス以前の哲学者」に関する覚書 4

 廣川洋一の『ソクラテス以前の哲学者』(講談社学術文庫)に就いて書く。

 古代ギリシャの思想史において、パルメニデスを開祖とするエレア派の理論が齎した衝撃は極めて甚大なものであっただろうと推測される。タレス以来の累代の賢者たちが専ら「自然=ピュシス」(physis)の観察と分析に没頭し、無限に繰り返される生滅の原理的な規則を探究することに情熱を注いできたのとは対蹠的に、パルメニデスは諸々の経験論的な現象を、感官の織り成す「虚妄」として排斥した。彼は事物の「生成」が有り得ないこと、事物の「存在」は如何なる生滅の原理とも無縁であることを声高に訴え、堂々と宣告した。

 パルメニデスは「存在しないもの」を思惟の対象から除外し、所謂「無記」の範疇に監禁した。人間が「存在しないもの」に就いて考え、論じることは不可能であり、あらゆる思惟の対象は必然的に「存在」でなければならない。こうした考え方は、如何なる具体的な帰結を導き出すのだろうか。

 パルメニデスが「生成」の事実性に対する深刻な懐疑から出発したことは概ね確かな事実であろうと考えられる。彼は「無からの創造」(creatio ex nihilo)という概念を否定し、何もない場所から何かが生み出されるという奇態な「相転移」の起こる可能性を峻拒した。従って「生成」という概念を、何かが生まれたり滅んだりする過程として解釈する限り、それは単なる「謬見」(doxa)に他ならない。「無からの創造」が否定されるのならば、事物の生滅という経験論的な現象は総て「錯覚」に過ぎない。それは「存在」の表層的な変化であるが、存在そのものが拡縮する訳ではなく、存在と虚無との配合の比率が変動する訳でもない。その意味で、この世界には不生不滅の単一的な「存在」以外に、真摯な思惟の対象に値するものは有り得ないのである。

 こうしたパルメニデスの考え方は極めて無時間的で、個別的な事物の感性的差異を悉く単一の「実在」へ還元する極端な「抽象化」(abstraction)の意志を鮮明に発露している。パルメニデス的な「実在」は、この世界の総体そのものであり、あらゆる「空虚」(kenon)を排除しているが故に、複数の部分に区別されることがない。また、時間の経過に関わらず、絶えず恒常的な同一性を保ち、如何なる変化も経験しない。言い換えれば、パルメニデスの世界は「時間」という概念を必要としないのである。我々の感官が日常的に把握する多様な現象は残らず「仮象」(schein)として、つまり明確な根拠を持たない無意味な「錯覚」として貶下され、総ての事物は単一の巨大で無時間的な「同一性」(identity)の裡に吸収される。あらゆる個物を始原的な「一者」(to hen)へ還元する考え方自体は、古代ギリシャの思想史においては、特段に奇態な発想ではない。イオニア学派の自然学者たち、タレスアナクシマンドロスたちも、万物に通底する根源的な「始原」(arkhe)を探究したという意味では、その思惟の主たる関心は絶対的な「一者」に向けられていたと言える。

 けれども、時間的な生成を否定するパルメニデスの思想においては、そもそも「始原」という概念自体が、真摯な探究に値しない「虚妄」に過ぎない。従って「始原」としての「一者」を探究するという知性的な作業は要請されない。「一者」は絶えず感覚的な表象の彼方に、不動の姿勢で屹立している。それは如何なる時間的変成も蒙らず、空間的な分割や移動とも無縁であり、世界の隅々にまで充満して、あらゆる空虚を否認している。こうした絶対的で普遍的な「一者」は、決して感官の機能を通じては把握されない。それゆえにパルメニデスは専ら「知性」(nous)の働きを重んじる。こうした考え方が、ピュタゴラスの数理的な世界観と融合して、後代のプラトンに極めて決定的な影響を及ぼしたことは鮮明な史実である。

 だが、プラトンパルメニデスの思惟に完全な満足を覚えたのだろうか。パルメニデスの論理を敷衍する限り、感覚的な現象に内在する摂理を探究する自然学的な思索は、単なる錯覚の観察に他ならず、寧ろそれは世界の「真理」からの退嬰を意味する。パルメニデスの思惟は、経験論的な実在の構造を解明する拡張的な探査とは無縁であり、万物を「一者」に還元する抽象的な縮約を我が物にすることが理想的な境涯であると看做される。それは科学的な実証主義とは対極的な方針であり、感覚的な現象に惑わされない堅牢な知性を保持することが何よりも優先される。これは世界の探究であるというよりも、宗教的な修養の作法に近似しているように思われる。如何なる自然学的探究も無益な遊戯に等しいのであれば、つまり地上的な「現象」の世界に属すること自体が「過誤」の一種であるならば、パルメニデス的な思惟の到達すべき理想的境涯は「彼岸」に他ならない。肉体を「霊魂の墓」と看做し、地上的な実存を一種の「劫罰」として定義する古来の宗教的伝統と、パルメニデスの「一者」の思想とは、相互に共通する要素を含んでいるのである。

 霊魂が地上において経験する感覚的な事実が悉く「仮象」に過ぎないのならば、何故、我々の実存は「肉体」という牢獄に括り付けられているのか。それを神話的な「懲罰」と看做す思考の様式の淵源が何処に存在するのかは知らないが、古代ギリシャにおいては「オルペウス教」(orphism)と呼ばれる宗教の裡に、その典型的な集約が見出される。地上的な実存を、人間の非本来的な生存の様態として定義し、繰り返される輪廻転生を「劫罰」と捉える考え方は、古代インドの思想的領域の裡にも存在する。地上的な実存を「堕落」の範疇に組み入れ、感覚的な「仮象」に惑溺する生活からの解放を「浄化」或いは「贖罪」として尊重する思想的系譜は、自身が秘教的な集団の頭目であったピュタゴラスは固より、恐らくパルメニデスの哲学にも継承されている。

 存在の実相を理解することは、仏教における「開悟」の思想にも通底しているように思われる。それは感覚的な認識を成立させる種々の「分類」を否定し、一切合切を絶対的な「一者」に還流させ、万物の個性を単一の同一性の原理によって包摂し、消去する。このような思惟が、イオニア的な自然学の系譜と対立することは不可避の帰結である。経験論的な実証主義は、万物を「一者」に還元し、感覚的認識を「虚妄」として斥ける神秘主義的な性向とは相容れない。自然学者たちが主要な探究の対象とするのは「生成の規則」であり、生成的な現象の一切を否定するパルメニデスの極端な神秘主義は、自然学的な原理を根本から排撃しているのである。

ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫)

ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫)