サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(transcendence,appearance,correspondence)

*未だ前途は遼遠で、理解の浅い事柄ばかりだが、哲学や思想に関する書物を渉猟する日々を過ごし、少しずつ、オリーブの搾油のように緩慢な速度で、知識の断片が累積し、それらが徐々に化学反応を示して有意な塊を析出しつつある。勿論、分かることよりも分からないことの方が圧倒的に多い。

 一般に哲学史においては「合理論」と「経験論」の二大潮流が存在すると言われる。尤も、この区別は極めて根源的なもので、様々な衣裳に袖を通しながら入れ替わり立ち代わり幾度も舞台の上へ登場する古参の役者のようだ。「霊肉二元論」も「普遍論争」も、煎じ詰めれば同一の伝統的な図式へ帰着する。

 経験論は、地上における感覚的な現象を愛し、五感を通じて捉えられる事象(それは必ずしも生身の肉体に附属する感官でなくとも良い。様々な機器の助けを借りてもいい。重要なのは、対象が何らかの形で実証的な観察に値するということだ)に専ら主要な関心を寄せる。合理論は、感覚による認識を排除して、抽象的な観念を操作することに長けている。彼らは観察することの出来ない不可知の対象に就いて、精緻な整合的論証を組み立てることを好む。古代ギリシアにおける「イオニア学派」と「イタリア学派」の二大潮流もまた、こうした雑駁な図式に依拠して整理することが可能だろう。数学を重視し、普遍的な「真理」の先行を語ったプラトンと、感覚による確証を尊び、独断を排して複数の仮説を維持することの意義を説いたエピクロスの対立も同様である。無論、何れかに偏するのが不合理であるのは明らかだが、偏しない限り、極端な帰結へ達することが出来ず、その構想の裡に埋蔵された可能性が限界まで掘削されずに終わってしまうので、つまらないと言えば確かにつまらない。そもそも、論理というのは極限まで達することを不可避的に強いられる機構でなければ役に立たない。

*巷間に流布する「西洋占星術」の算定によれば、私の太陽は蠍座に、月は獅子座に属する。しかし「インド占星術」において重視される「ラグナ」(西洋占星術における「アセンダント」に該当する)は、ネットで調べた限りでは「双子座」であるらしい。

 興味本位とはいえ、今まで色々な占星術の記述に眼を通してきた経験から言えば、大抵の場合、蠍座は寡黙で秘密主義であり、嫉妬深く、支配欲と探究心が強い、という概略が示される。また、職人や探偵や研究者に向いており、他者と頻繁に接する職業には適さないと言われる。強靭な体力を有し、変態的な性欲を持ち、水の星座に分類されるので感情的(但し、マグマのように抑圧された深刻な情念)で、野性的な洞察力を備えている。

 占星術の熱心な信奉者ではないので、こうした要約が適切かどうかも分からないが、こういう図式に自分が合致しているかどうかに就いては、正直心許ないというのが本音であった。改めて自分を顧みても、寡黙ではなく寧ろ口が軽く、秘密を守れないタイプであるし、嫉妬心に関しても、矯正の努力の結果かも知れないが、人と比べて特に強いとは思わない。昔から、他人に憧れたり羨んだりすることが少ないのである。支配欲に就いては、確かに自分の思い通りに物事を動かしたいという考えは持っているが、他人の行動を一から十まで管理するような煩雑な欲望は有していない。探究心はあるが、比較的飽き性である。見た目が華奢な割に体力は意外にあるが、腕力はなく、猫背で肋骨が透いて見える。性欲に関しても、一回で精々一時間、終わると直ぐに眠気に襲われる。嗜好の面でも頗る平凡で、変態的な探究心は乏しい。感情は劇しいと言えば劇しいが豊かではなく、どちらかと言うと妻も含めて、周囲からは理詰めの冷酷な人間であると評される。

 ところが、今まで殆ど触れたことのない双子座に関する概説を読むと、色々と符節を合する点が視野に展開されてくるのである。

 ウェットで情熱的な蠍座の肖像とは全く異質な要素が、双子座の象意に充てられている。理智を重んじ、言語全般を愛し、コミュニケーションに長け、読書や議論やユーモアを好む。一般に双子座の特徴と言われる、二重人格で本音と建前の乖離が著しい辺りも腑に落ちる。移り気で飽きっぽいのも当たっているかも知れない。私は同一の作業を無限に反復するような仕事が苦手である。長年、不特定多数の他人と接する接客業の世界で食い扶持を稼いできたのも或いは、双子座の特質の恩恵なのかも知れない。重要な伴侶とは職場で知り合う傾向が強いという指摘も正鵠を得ている。

 因みに、天体の運行と地上の事象との間に何らかの「照応」(correspondence)を読み取る占星術の考え方も、人類の思想史の一部として組み入れることが出来るだろう。その予言の当否は別として、占星術という神話的思考の形態が、古代ギリシアの自然学的探究に類するものであることは明瞭である。兎に角、人間はあらゆる種類の論理を創案する奇態な天才なのだ。思想の歴史を学ぶことは、人間の想像力の宏大な沃野を散策することに等しい。