サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(信仰/理性)

*人間が何かに固執するとき、そこに働いている情念の形態や、それが形成された歴史的経緯は様々であるだろう。人間は頻繁に不合理な情熱に囚われるし、冷静に考えるならば不毛であると結論せざるを得ない明確な謬見に対して、服従の姿勢を解くことが出来ないことも珍しくない。

 そうした盲従の姿勢は不合理であるが故に、浅薄で賢しらな批難の標的に選ばれることが多いけれども、人間が何らかの偉業を成し遂げる為には、不合理な情熱や常軌を逸した執着が重要な役割を担うことも少なくない。要するに私は「創造/批評」の二項対立に象徴されるような、人間の実存的様態の孕む問題に就いて漫然と考えようとしているのだ。或いは「行為/認識」と呼び換えてもいいし、表題に掲げたように「信仰/理性」と書き直しても構わない。この素朴な二元論的思惟の構図から、何らかの有益な知見を蒸留したいのだ。

*私は理窟っぽい人間である。言葉を愛し、読書を愛し、こうして誰の関心も惹かない駄文を冴えない街娼のように倦まず弛まず書き殴り続ける。以前は小説を書くことに情熱を燃やしていたが、どうしても一つの物語を営々と紡ぎ続けることに心が堪えられない。それより、色々な事柄に就いて論評したり、自分の思考の航跡を見凝めて尾行する方が好みである。言い換えれば、私は一つの想像的な世界を構築するという地道で情熱的な営為に身を捧げられないのだ。つまり「没頭」が苦手なのである。直ぐに意識が逸脱と遁走を開始する。他の可能性を排除するという視野の狭窄を戦略的に堅持する才能を欠いている。

*何かに没頭するとき、人は言葉を忘れ、無心の沈黙の裡に懐かれる。氾濫する感情や省察は、言葉という粗い網目を擦り抜けて逃れ、僅かな指の隙間から清らかな水が漏れるように、肉体の隅々にまで浸透する。没頭しているときも思考は続いているが、それは言語によって統制されず、もっと直観的で、感覚的で、綜合的なものだ。言葉は分析し、巨大な同一性を分別し、違いを際立たせ、同時にあらゆる細部を捨象し、要約する。こうした情報の調理は、言葉によって具体的な形を与えられ、他者の眼に映じ、他者の耳に届くようになる。言葉は何よりも先ず、コミュニケーションの象徴であり、不完全な信号であり、汲み尽くし得ない真実の断片を運ぶ器である。語る相手が自分自身であるとしても、他者であるとしても、それは感じられるだけで明示されない対象に、可視的な形状を授ける。言葉は渾沌に形状を授ける秘蹟を通じて、自己自身との対話を切り拓き、無限の他者との対話を可能にする。

*没頭するとき、人間は他者を意識しない。他人の意見を意に介さないほどに、彼は逼迫した情熱の焔の裡に棲んでいる。彼は他人との関係を絶ち切り、或る稠密な空間の内部に自分自身を幽閉し、言葉にならない対話を繰り返し、曖昧なものに形を与える。けれども、その錬金術師のような作業を通じて導き出される言葉は、恐らく特殊な含意と文脈に繋がれた、平易な言葉だろう。

*言葉の間を泳ぎ回る人々。言葉にならないものに名前を与えるのではなく、既に与えられた言葉の森の中で、愉悦と昂揚を味わう人々。理智は、言葉の世界を駆け回る。様々な語彙に通暁し、その歴史的な遺産を継承し、言葉同士の異種交配を通じて新たな造語を繁殖させ、言語化された風景の中で生きる。彼らは言語化し難いものに疎くなり、言語化されたものだけが存在するという錯覚に傾く。それは言い換えれば「意味」だけに聡くなるということだ。純然たる風景、音楽、感触に耽溺することはない。あらゆる事物は常に「意味」を担っていなければならない。無意味なものを排斥し、意味と意味との関係が調和的であることを尊ぶ。つまり、論理的な構成の美しさを愛する。

*没頭は、無意味を無意味と感じない精神的姿勢を欠いては成り立たない。無意味なものを価値に置き換える超越的な信仰に支えられていなければ、没頭は持続しない。けれども批評家は、事物を単一の意味によって推し量ることを嫌う。単一の論理に総てを捧げることに苦痛を覚える。いや、これは必ずしも批評家の性ではないかも知れない。単一の論理を終生維持し続ける頑迷な批評家も有り得るだろうからだ。だが、没頭という言葉は、理性を没することを暗示する。それは愚昧ということだろうか? 少なくとも、愚直な人間でなければ、何か単一の目標に向かって総てを注ぎ続けることは出来ない。他の選択肢を考慮するという客観的な姿勢は、愚直な盲従を妨げるだろう。

*信仰は、或る単一の価値に身を捧げることを意味する。それは他の選択肢を意図的に棄却するという過程を必然的に伴う。複数の相反するものを同時に信仰することが出来るだろうか。それは信仰の名に値するだろうか。何かを得れば、何かを失う。それが生成の原理であり、要諦である。それならば、何かを信じることは、何かを信じないことと不可分であるだろう。何も信じないのならば、逆説的に、彼は何もかも恕すことが出来るだろう。単一の規範に縛られないのならば、それは要するに、複数の規範の並立を容認することと同じである。何も信じられないという苦痛な懐疑は、何を信じても同じことだという諦念を含んでいる。どんな事物も、揺るぎない価値を保ち続けることはない。こうした相対性、流動性は、自ずと真理の複数性を認めることに帰着する。

*流動的な実存は、単一の価値を認めず、価値の恒常性も認めない。価値は絶えずくるくると変わり続ける。それゆえに流動的な主体は、瞬間的な価値の形成を重んじる。有限の価値、それが偶発的に析出されたという事実の確かさを愛する。それは価値の恒常性を聊かも約束しないが故に、何ら信仰の礎石とはなり得ないが、だからこそ愛惜に値するのである。揺るぎない価値を、その不滅の性質ゆえに愛するのとは異なり、流動的な主体は、事物の有限性を愛する。事物の有限性そのものが、特別な価値を析出するのである。

*この点に関して、人々の意見は分かれる。事物の価値を、その不滅性に求めるか、有限性に求めるか。これは一つの実存的な分水嶺である。価値の恒久的な重さに絶望する人もいれば、その気の遠くなるような重さを愛する人もいる。一般に移り気であるとか飽き性であるとか、そのように評価される人々は恐らく、事物の有限性を価値として認めているのである。何れ失われるものであるからこそ、当該の事物は価値を帯びる。彼らの信仰が頼りないものであるように見えるのは、彼らの信仰の対象が様々に移り変わる為だが、価値の有限性自体を愛するという基本的な方針は変わらない。彼らは普遍的な価値を信奉せず、自己の同一性に対しても熱心な関心を持たない。明日の自分と今日の自分とが、相互に統合し難い分裂を抱えていることに驚かない。複数の価値が共存する事態に苦しみを覚えない。この瞬間の愛しさを軽視しないのは、彼らが普遍的な価値を信じておらず、長期的な枠組みに基づいて、単一の規矩に則って人生の全般を統御するという考え方を重んじていないからである。