サラダ坊主日記

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ジャン・ブラン「ソクラテス以前の哲学」に関する覚書 3

 ジャン・ブランの『ソクラテス以前の哲学』(文庫クセジュ)に就いて書く。

 ヘラクレイトスは一般に「生成」の哲学を語った人物であると論じられ、その思惟の方法はエレア派のパルメニデスと対照されることが多いけれども、実際にはそれほど単純な図式には還元されない特質を孕んでいる。ヘラクレイトスの論じる「生成」の実状は、例えば原子論者たちの提示する世界の映像とは明らかに異質であり、無限の空虚を想定するものではなく、そもそも「空虚=ケノン」(kenon)という概念を排斥する先賢の考えを受け継いでいると言える。彼もまた、ピュタゴラス的な「一者=ト・ヘン」(to hen)或いはイオニア的な「始原=アルケー」(arkhe)によって示される世界の完結性を信憑している。

 世界、或いは宇宙を単一の完結的な存在と看做し、その円環的=循環的な性質を強調することは、古代ギリシアの思想的な伝統であったように思われる。イオニアの自然学者も、イタリア学派の系譜に連なる思弁的な人々も共に、宇宙の完結性という公理に準拠し、その恒久的な存続自体を疑おうとはしていない。「アルケー」という言葉は、必ずしも時間的=歴史的な起源を意味するものではなく、万物を包摂する宇宙の恒常的な同一性そのものを意味している。言い換えれば、この世界は特定の時点で創出されたものではなく、厳密な時間的始原を持たないのである。こうした考え方を一言で要約するならば、古代ギリシアにおいては「存在」が総てであり、如何なる意味でも「無」の実在を認めることはなかったのだ、という結論に帰着する。この観点はヘラクレイトスのみならず、パルメニデスの思惟の裡にも見出される。「虚無」に就いて考えることを、パルメニデスは度し難い誤謬として斥けたが、それはギリシア的な宇宙論の伝統に由来しているのである。

 ヘラクレイトスの「生成」は「虚無」を包摂しない。相反するものが調和し、闘争と流動が絶えず世界の内実を占めているというヘラクレイトスの「生成」においては、存在そのものの消滅は起こらない。それは別の事物に変異したり、離合集散したりしているだけで、本質的な意味で「存在」と「虚無」との目紛しい交替が営まれている訳ではない。こうした考え方は後世、プラトンが対話篇「ティマイオス」において提示した「コーラ」(chora)という概念にも通じている。「コーラ」は個別的な存在者ではなく、従って固有の形態や性質を持たない。「コーラ」は存在そのものであり、あらゆる生成を受容する不可知の領域である。「コーラ」が機能し続ける限り、個別的な存在者が消滅したように見えたとしても、何らかの存在が維持されている事実そのものは動かないのである。従って「生成」を「生滅の反復」として理解するのは表層的な誤解に他ならない。「生成」は「存在の変容」であり、可視的な事物が消滅したとしても、それは「虚無」の発生を意味しないのである。「消滅」は「存在の欠如」ではなく、飽く迄も「存在の変容」なのだ。

 このように考えるならば、そもそも「存在/生成」を対立させるプラトニックな議論自体が疑わしい謬見のように感じられるだろう。相反するものが緊張した調和を形作ることが出来るのは、諸々の事物が根源的な「存在」の裡に包摂され、基底的な同一性を無条件に保証されているからである。幾ら生成的な変容を繰り返したとしても、存在そのものの恒常性は全く毀損されない。この観点を極限まで敷衍していけば、確かにプラトニックな「存在/生成」の二元論的図式を析出することになる。けれども、そこに「イデア」(idea)という個物の範型を附加するのは専らプラトンの独創であると言うべきだろう。少なくともヘラクレイトスの「ロゴス」(logos)は、そのような具体的範型を意味しない。彼は「生成」が「存在の変容」であることを強調すると共に、相反するものの間に成立する「諧調」の根源的な同一性を論じただけである。

 ロゴスは、生成的な宇宙を支配する普遍的な摂理である。それは同時に人間の魂の裡に内在する。こうした「超越/内在」の「照応」(correspondence)という考え方もまた、古代ギリシアの伝統的な観念の一種であると思われる。根源的な「一者」から分離され、生成された事物の数々の中で、人間の内部に宿る「霊魂=プシュケー」(psyche)には特別な権威と卓越した機能が認められている。それは認識の機能を宿し、事物の性質や構造を判定する理智的な思惟の技術を備えている。この「プシュケー」を「ロゴス」の反映、写像、模倣、照応として解釈し、それを取り囲む「肉体=ソーマ」(soma)と峻別する考え方は、プラトンの「イデア」に関する学説を経由して、恐らくはキリスト教の巨大な神学的体系の裡に流入している。「霊魂」を「内在的真理」として定義する思惟の様式は、古代ギリシアにおける普遍的な世界観の根幹を成していたのである。従って、こうした思想的系譜の継承という観点から眺める限り、例えばプラトンが対話篇「テアイテトス」において提示した相対主義、流動主義の学説を、ヘラクレイトスの思想に重ね合わせようとする処理は、適切な解釈であるとは言い難い。有名な「万物流転」(panta rhei)の認識は、根源的な「存在」の概念を排除するものではなく、飽く迄もヘラクレイトス的な「生成」は「存在の変容」として記述され、定義されているからである。万物が絶えざる生成の過程として存在することを強調するのは、万物の存在論的な事実性そのものを否認することとは必ずしも等号で結ばれない。生成的個物は、根源的な「一者」の変容した形態であり、何れにせよ個別的な存在者が「存在」という基礎的な「真理」に制約されているという事実自体は動かないのである。

ソクラテス以前の哲学 (文庫クセジュ 487)

ソクラテス以前の哲学 (文庫クセジュ 487)