サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

他者の不幸を歓ぶ者たち 2

 社会的影響力の大きい人間であろうとも、公職に就いていない一介の私人の不法行為を、公然と摘示する行為に法律的な正当性は認められない。この前提に基づいて、不貞の当事者たちに対する苛烈な輿論に就いて考えてみたい。

 多くの著名人、多くの無名の庶民が、今回の騒動に関して、当事者たちの人格や倫理的意識を批判する発言を行なっている。無論、他者の不倫に関して、如何なる感想を持つのも個人の自由である。また、そうした意見を外部に表明することも自由である。但し公共の場で、不貞の当事者たちの品位に関して、彼是と道徳的な見地から手厳しい糾弾を浴びせ、彼らの人格が如何に欠損しているかを声高に喧伝するのは、表現の自由を超えて、立派な名誉毀損行為であると言える。

 尤も、私の主たる関心は、極めて峻厳な現下の輿論が、名誉毀損罪や侮辱罪を構成するかどうかという点に置かれている訳ではない。不法行為を犯した人間の私生活を暴き立て、彼らの人格的瑕疵を問責する人々の振舞いの方が、犯罪行為を構成しかねない要素を明瞭に含んでいると、皮肉を並べて済ませたい訳でもない。最も根源的な疑問は、他人の過失を何故それほど自信満々に糾弾出来るのか、という点である。キリスト教の「原罪」(original sin)ではないが、原則として人間は愚かしい存在である。生まれてから死ぬまで一点の曇りなく道徳的に清廉潔白な人間でいられると思い込むことは、少なくとも私にとっては酷く難しい。いや、そもそも既に数多の過失に塗れているのだから、原理的に不可能である。

 他者を批判することが常に唾棄すべき暴力であると断定して、別種の道徳的威光を纏いたいと目論んでいる訳ではない。正義を貫くことが時に何よりも肝要である局面は確かにこの地上には存在する。けれども、直接の利害を持たない他人の行動を極限まで批難し、当事者の精神を追い詰め、自由や主体性や尊厳を叩きのめすのは、果たして妥当な振舞いだろうか? 少なくとも、正義の威光の下に他者を虐待する行為を「聖戦」と呼ぶのではなく「ハラスメント」と称して窘め、規制するのが現代の一般的な倫理ではないだろうか。当人に隠れて、専ら私的な空間で、罵詈雑言の火箭を乱射するのは個人の自由だ。しかし、公然と足並みを揃えて没落した嘗ての社会的強者を難詰し、その人間性を悪しざまに蔑むのは明確な「ハラスメント」ではないのか。

 悪人、社会的弱者、脛に傷を持つ総ての人々、言い換えれば「正義に対して毅然と反駁する資格を持たない人々」に対する過剰な総攻撃には、秘められた享楽が潜在している。正義の美名を借りて思う存分、他者の主権や尊厳を毀損することのサディスティックな愉楽に、多くの人は抗し難い魅惑を覚えているのではないか。他者の毀損が直ちに背徳的な欲望の充足を意味するような人間の醜悪な心理、それを根絶すべきだと性急に訴えれば、忽ち別種の暴力的正義に屈し、その麻薬的な中毒性に耽溺する羽目に陥るだろう。単一的正義、つまり単一の価値が他の一切に優越するという揺るぎない信憑、それが生み出す排他的な抑圧、自由の制約、寛容の減退、これらの問題は歴史上、数え切れないほど幾度も真摯な議論の俎上に載せられてきたが、未だに根本的な解決を見ていない。児童虐待も、何らかの正義の名の下に(それが家庭という密室において排外的に運用される親の恣意的な正義であることは明瞭だ)度し難い「悪」を断罪するという筋書きに則って遂行される。子供を殴り、虐げながら、その憤怒の瞬間には、愚かしい親は本気で自己の正義を信じ切っているのかも知れない。その点に、正義が生み出す排他的な暴力性の忌まわしさの神髄が宿っている。人間は時々、自分の揺るぎない鋼のような正しさに官能的な興奮さえ覚える生き物なのだ。

 恐らくは不倫という過ちを犯したことのない誠実な人間、或いは配偶者の不倫によって堪え難い痛苦を心に刻まれた憐れむべき被害者の立場の人間、彼らは不倫という最悪の背徳に溺れた人間の軟弱な精神、破廉恥な性向、穢れた性根を完膚なきまでに叩きのめす。そのような情熱的衝迫に駆り立てられるのは個人の勝手だ。しかし、それを揺るぎない正義と呼ぶのは思い上がりではないか。正義は、惰弱な享楽に屈しない精神的な強度を意味すると一般的には信じられている。だが、正義自体が一種の享楽であるとするならば、それを他人に強いることが如何なる普遍的な正当性を担保し得るだろうか? 自分の趣味を他人に強要することが愚かしい罪悪であることに就いては、多くの人々が満腔の同意を示している。だが、往々にして普遍的な正義は、それを受け容れない者への集団的な敵意を培養する。或いは強要ではなく、説得によって理解を得るならば、それは暴力ではなく対話であり、教育であると訴える人もいるだろう。だが、その境界線は余り明瞭ではなく、厳密でもない。正義は、悪人の不幸から無限の快楽を汲み出す。他者の弱さ、醜さ、腐敗、悪徳から、相対的な快楽を抽出し、アルコールのように味わって歓ぶ。それさえ紛れもない人間の実相には違いない。問題は、その自覚を持つかどうかだ。正義の名の下に他人を批判する己自身の悪徳を認められるかどうか、それが本質的な問題ではないか。