サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

抒情と想像の糖衣 三島由紀夫「接吻」

 久々に三島由紀夫の小説に就いて書く。取り上げるのは掌編と呼んで差し支えない分量の「接吻」(『女神』新潮文庫)である。

 さらさらと色鉛筆で手早く描いた簡素なスケッチのような、この泡沫のように儚い作品の裡に、大袈裟な思想的含意を探し求めたところで、報われる見込みは乏しいだろう。恋の詩ばかり書きながら、実生活では頗る純朴で世慣れない詩人の感傷を、態とらしく揶揄する訳でもなく、淡々と浮き上がらせた作者の筆致は、大上段に振り翳した硬質な論理や大層な御題目とは無縁である。

 恐らく詩人は、唇に触れた鵞ペンの羽根の感触だけで居ても立ってもいられなくなるほど、純情な恋心に脳味噌と心臓を鷲掴みにされてしまう類の初心な人物である。彼の甘美な想像的感傷は、異性との腥い対決の涯に掴み取られた一掬の苦い真理のようなものとは無縁で、隅々まで繊細な糖衣で象られている。彼は拙くも優雅な綺語を列ねて、この世ならぬ美しい抒情を歌い上げる。そこには苛烈な現実の反映の代わりに、苦悩の化粧で装った甘ったるい情熱だけが瀰漫している。若しも詩歌というものが、身も蓋もない現実の表層に塗抹された薄い顔料のようなものに過ぎないのなら、詩人Aの稚拙な詩句でさえ、充分に用を足し得ただろう。言い換えれば、この修業の足りない抒情的な詩人は、現実の美しい側面ばかりを、解釈の力によって信じ込もうとする浮世離れした気質の持ち主なのである。彼は密かに慕っている画描きの女性の家を訪れ、彼女の唇に甚く執着しながら、思い切って口説きの文句を並べ立てる芸当すら覚束ない。開き直って、専ら肉慾の為に恥も外聞も投げ捨てようという野卑な気概を持つことが出来ない。彼が眺めているのは美しい世界だけで、脈のない女を口説き落とすという如何にも粗野で乱暴な挑戦は、彼の信じる世界の映像に相応しくないのだ。

 だが、こうした問題は、果たして彼が詩人として稚拙な技倆しか持ち合わせていないことが原因で生じているのだろうか? 多かれ少なかれ、芸術という分野には、剝き身の現実から一歩引き下がって、身も蓋もない真実から眼を背けようと試みる繊細で観照的な要素が必ず含まれているのではないか。無論、総ての芸術が、そのような構造を孕んでいると一方的に断定する積りはない。ただ、少なくとも詩人に関しては、その芸術的創造の中核に「観照/感傷」の原理が内在し、あらゆる事物を美しくする角度の模索と発見に最大の価値を見出しているのではないか。

 古き良き性別的構図に殊更に固執する訳ではないが、男が女を口説く過程というのは、詳細に観察すれば実に厭らしいもので、人間の心理の醜悪な側面が黒々と滲んでいる。尤も当人同士の間では、それらの腥い心理的傷痍は巧みに糊塗され、詩人的な抒情の幻影が見苦しい真実を蔽い隠してくれる。所謂「二人だけの世界」に逼塞して、互いの性愛的な欲望を満たし合う光景は、如何に飾り立ててみても、動物的な光景には違いない。だから、それは一般に秘め事として隠匿され、公序良俗の彼方へ幽閉される慣わしなのである。一旦冷静になってしまえば、つまり余計な感傷を剝ぎ取ってしまえば、浅ましい動物的交尾の過程が粛々と演じられるだけの無味乾燥な、聊か滑稽な情景が展開するだけだ。

 そういう真実を直視することは、詩人にとっては堪え難く、また退屈である。美しいものだけを見たいのならば、迂闊に恋愛などという地獄へ踏み込まない方が賢明である。誰かを好きだと思う感情自体は安易に美化されがちだが、そこに秘められた独占欲や、それに附随する嫉妬、打算、孤独への恐怖といった心理的現象は少しも美しくない。恋愛を美しく描くことと、恋愛の深淵へ踏み込むことは相互に全く類似していない。詩人が「安全」であるのは、彼らが自分自身の裡に潜在する数多の見苦しい欲望と向き合うことを忌避し、それゆえに紳士的な拘束を自らに課さざるを得ないからである。彼らは美しい人間でありたいのだ。その審美的な規範が、彼らに動物的な欲望の発露を躊躇させる。鵞ペンの羽根に唇の「ゆらめくような甘い感覚」(p.161)を喚起されるような繊細な心情は、野蛮な性愛の顕現と対立する。それは身も蓋もない現実の抑圧を通じて反動的に形成される想像的な官能である。実際、多くの擦り切れた大人たちは弁えているだろう。現実の官能は、それほど繊細でも甘美でも情熱的でもないということを。

女神 (新潮文庫)

女神 (新潮文庫)

  • 作者:三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 文庫