サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「媚態」のニヒリズム 三島由紀夫「恋重荷」

 三島由紀夫の短篇小説「恋重荷こいのおもに」(『女神』新潮文庫)に就いて書く。

 この作品を一つの簡素なラベルで要約するとすれば、恐らく「三角関係の話」ということになるだろう。尤も、この短い小説の裡に詰め込まれた幾つかの場面には、一般に「三角関係」という言葉から連想される濃密な嫉妬に基づく手荒な惨劇の類は殆ど映じていない。情熱的な性交や、暴発する独占欲に教唆された暴力は登場せず、総ては抑制された微妙な心理的推移として、理性的な猿轡を咬まされた状態で描写されている。

 人を好きになるのは尊いことだと朗らかに断言して憚らないのは随分と楽観的な態度であり、実際には誰しも、その心理的な深淵に多かれ少なかれ辟易しているのではないかと思われる。片恋で気が済むならば安全で大いに結構だが、相手の歓心を購いたくなったり、その移り気な恋情を拘束して自分の手許に独占しておきたいと切に願ったりするようになれば、華やかな恋心も忽ち堪え難い「重荷」に転化する。恋心は必ず独占への欲望と密通しており、愛しい人のことを考えて夜も眠れなくなったり嫉妬や怨嗟に魂を焦がしたりする情熱の劇しさは明らかに、こうした「所有」へのエゴイスティックな固執に淵源を持っている。相手が浮気しても一向に差し支えないと心から思えるのは、一般に恋心の欠如と看做される。相手を所有したいと願う気持ちを、呑気な面構えで「尊い」とか「微笑ましい」とか、そういった類の言葉で形容するのは余りに軽率で安直な振舞いである。

 世の中には、意図的であるかどうかを問わず、自分に対する他人の恋情を煽動し、眩惑する才能に恵まれた人間が少なからず実在する。彼らは如何なる誠実な約定も、束の間の衝動的な感情の介入を理由として滑らかに破棄し、そのことに大した痛痒も覚えない。彼らの才能は、目紛しく移り変わる情念の波動を軽やかに乗りこなす器用な技巧の裡に存する。言い換えれば、彼らは次々に湧き起こる己の感情に対して非常に忠実であると同時に、社会の規範や他人との約束事には無関心なのである。けれども、何らかの魅惑的な要素を備えている為に、彼らの感情の不安定な動揺は、他者にとって純然たる嘲笑や賤視の標的には留まり得ない。不安定な彼らの一挙手一投足が、恐ろしい不実の懸念と共に、信じ難い親密さの暴発を予感させるがゆえに、彼らの魅惑に囚われた人々は、相手の不実だけを理由に関係を絶ち切る禁欲的な勇気を維持することが出来なくなってしまうのだ。

 媚態に長じた人間は、本音を巧みに隠蔽するのみならず、時に理智の抑制を振り切って、自己の内面に生じた過激な衝迫に向かって大胆に身を躍らせたりする。重要なのは純然たるポーカーフェイスではなく、感情的な変容を素朴に優先することによって形成される「一貫性の欠如」なのだ。彼らは移り気で、必ずしも貞節を遵守しないばかりか、時折異常な道徳的潔癖を発揮して、貞節の権化であるかのように振舞う。それゆえに周囲の人間は誰も、媚態に長じた者の本質を見究められず、安堵も絶望も共に収奪されて、不穏な宙吊りの状態へ留置されることとなる。「一貫性の欠如」は、言動の真偽に関する明瞭な基準を失効させる。「私の無意識な嘘の本能」(p.225)という修辞は、礼子が単純な嘘吐きであることを意味するものではなく、真実と虚偽との境界線が本質的に不分明であることを物語っているのだ。

 夏衛と康親との間で演じられる、虚栄心に塗れた「恋の鞘当て」は、礼子の「無意識な嘘の本能」によって喚起されている。康親の不実が、彼女の誠意を挫いたに過ぎないのならば、話は簡明である。しかし厳密には、礼子の不分明な「媚態」こそが、康親の有り触れた遊蕩の原因なのである。彼女の感情は一定の状態に固着することを拒み、絶えざる浮薄な遊動の裡に置かれることを望んでいる。単一の感情に総身を捧げられない者は、その危うい不実のゆえに他者を魅了し、相手の儚い期待を常に膨張させ、安易な希望にも確固たる絶望にも決して縋れないように仕立て上げる。絶対的で普遍的な原理を持たず、規則的な変化にも従属せず、常に逸脱していく心理的な現象が、媚態のニヒリズムを形作る。如何なる価値も信頼しない人間は却って、如何なる価値にも忠誠を誓うことが出来るし、その誓約を随意に破棄することが出来る。誰のことも愛さない人間は、誰にでも真摯な愛情を打ち明けることが出来る。この不穏な逆説は、恋愛に関する素朴な肯定の足場を無言の裡に突き崩してしまうだろう。

女神 (新潮文庫)

女神 (新潮文庫)

  • 作者:三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 文庫