サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

地上の愛慾に身を焦がして 三島由紀夫「みのもの月」

 三島由紀夫の短篇小説「みのもの月」(『ラディゲの死』新潮文庫)に就いて書く。

 表題の「みのもの月」とは漢字で書けば「水面之月」であり、要するに水面に映じた不安定に揺らぐ月影を意味している。劈頭に掲げられた「往生要集」からの引用が示唆するように、この「水面之月」は内なる煩悩に衝き動かされ、悪しき外縁げえんに誘われて正しい道を逸脱し続ける脆弱な人心の惑乱を象徴している。

 こうした額縁の裡に嵌め込まれた「みのもの月」という作品は、所謂「書簡体小説」(epistolary novel)の様式を選んで、王朝時代の貴族の恋愛に関する心理的移ろいを精妙な筆致で描き出している。平安期に成立した古今和歌集に収められている「我が恋は/むなしき空に/満ちぬらし/思ひやれども/行く方もなし」「夏虫の/身をいたづらに/なすことも/ひとつ思ひに/よりてなりけり」などの和歌が、書簡の文面に然り気なく織り込まれているのも、作者の細心な工夫を感じさせる。

 フランス文学の伝統的精華と謳われる繊細で観念的な「心理小説」に親しみ、別けても夭逝したレイモン・ラディゲの作品に極めて情熱的な崇拝を捧げていた三島が、日本の古典文芸に就いても造詣の深い人物であったことは広く知られている。持ち前の犀利な心理的分析の才能を活かし、繊巧な悲恋の物語を織り成すに当たって、彼が選んだ舞台背景は、中世以降の剛毅で血腥い武家社会ではなく、和歌に託して秘められた恋心を交わし合う平安期の典雅な公家社会であった。古めかしい措辞と現代的な表現が、書簡体小説という様式の強いる口語的な文体の裡で滑らかに溶け合い、躍動的なリズムを伴って、幾重にも折れ曲がった複雑な心理的葉脈の姿を読者の視野に浮かび上がらせる。「花ざかりの森」や「苧菟と瑪耶」といった他の若書きの作品と比較して、小説としての完成度は群を抜いて優れているように思われる。

 描かれている心情の遷移は、凡庸であると言えば確かに凡庸で、恋する者と恋される者との主導権を巡る陰湿な鍔迫り合いの過程が、纏綿たる告白体の文章の裡にぎっしりと詰め込まれている。恋愛においては「惚れた方が負け」という通俗的な経験則が頻々と囁かれる。自分と相手と、何れがより強く深く惚れているかという感覚的な計測に対する固執は、誰しも身に覚えがあるだろう。「自立/依存」という簡明な対義語で示されることもある、こうした恋心の煩瑣な消息は、正に「心理小説」の重要な、或いは唯一の主題である。追い縋る者と逃げ惑う者、これらの心理的立場は決して恒久的に不動である訳ではなく、些細な出来事を契機として幾度でも反転し得る。これらの心情の繁雑な遷移は、厳密には如何なる結論にも帰着しない。「結婚」が一つの完結的な答えであると看做すのは安直な思い込みであり、法律や宗教による「婚姻」という様式の賦与が、恋愛における厄介な感情の交錯を無条件に整除し、解決することはない。

 そもそも自ら蒔いた種であるとはいえ、友人である少将に女の慕情を奪われた男は、浮世の縁を絶ち切って出家遁世した後、間もなく入寂して浄土へ赴くこととなる。それは現世における錯雑した煩悩の密集からの、一つの決定的な救済であり解放である。出口のない愛慾の煩悶から免かれる唯一の方途として古来、仏道の教えは重要な役割を担ってきた。肉身を去った男は穢土の柵を離れ、清浄な彼岸へ移行して煩悩の累積から脱却する。しかし、地上に遺された女は、男の没後も猶、底知れぬ愛慾の苦しみの裡に閉ざされて、超越的な救済から見限られているのである。

 あまねき虚空界の荘厳を、あなたは目のあたりみていられるのでございましょう。そよかぜにゆれうごく四色の蓮や、瑠璃の池、珊瑚の花々も、百宝の色鳥のこえも、もろもろの宝樹に熟れづく綾うつくしい木の果も、いつかはわが身の今日となるのでございましょうか。いいえ、それはなりますまい。瓔珞のかげからどうぞわたくしに繽紛と花のはちすをお降らし下さいまし、はるかのそらにかかる無量の琴のねを、この地上にあって哀しみにたえております女の耳におきかせ下さいまし、わたくしは、みのもの月でございますから。(「みのもの月」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.35-36)

 掉尾を飾る女の絶唱は、例えば中上健次の「岬」や大江健三郎の「他人の足」の幕切れに匹敵する鋭く哀切な印象を、私の心に植え付ける。十代の若さで、斯様に卓越した音楽的な語り口を自在に操り、一篇の古雅な悲恋の物語を仕立て上げた三島の技倆はやはり、瞠目すべき才能だったのだと痛感させられる。

ラディゲの死 (新潮文庫)