サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

納富信留「ソフィストとは誰か?」に関する覚書 1

 納富信留の『ソフィストとは誰か?』(ちくま学芸文庫)に就いて書く。

 古代ギリシアの哲学者プラトンに関して、日本を代表する高名な研究者である納富氏が、本書において展開している古代哲学史に就いての緻密な考究の方針は、柄谷行人氏が『哲学の起源』(岩波現代文庫)で実践した思想的戦略と通底する意図を含んでいるように思われる。ソクラテスプラトンアリストテレスの学統を規範的な権威として称揚する古来の思想史に対峙しながら、柄谷氏はイオニアの自然哲学の系譜へ遡行することによって、その根深い伝統的構図の改訂を試みている。プラトンの遺した夥しい対話篇が作り上げたソクラテスの特権的なイメージ、即ちソクラテスを「哲学」の開祖と看做す歴史的な視野の構築によって抑圧された思想家たちの系譜を救済すること、それによって旧来の哲学史における堅牢な偏見を破砕し、新たな可能性を創出すること、こうした挑戦的な企図は、納富氏の著作の裡にも明瞭に見出されるように思われる。柄谷氏がアテナイの哲学との対決に際して、イオニアの自然哲学を駆り出したのに対し、納富氏はソクラテスプラトンと時代的に並行する数多の「ソフィスト」たちに白羽の矢を立てた。

 とはいえ、この戦略の実行を通じて古来の伝統的な哲学史における主要なパースペクティブを転覆することは必ずしも容易な作業ではない。中国の春秋戦国時代における「諸子百家」に比せられるように、最盛期のアテナイで活躍した夥しい数のソフィストたちは、何らかの共通の思想を相互に分有していた訳でもなく、彼らの主義主張が巨大な一枚岩を成していた訳でもない。往時のソフィストたちは銘々に固有の思想と得意な学術的分野を持ち、優れた弁論の技術を駆使して数多の信奉者を個別に引き連れていた。「ソフィスト」という概念に単一的な定義を賦与することは、無数の実際的な困難を伴う営為なのである。

 プラトンアリストテレスによって企図され、強力に推進されたソクラテスの聖化は、イオニアの自然哲学に対する抑圧と共に、ソクラテスと時代的に並行する有力なソフィストたちへの峻厳な抑圧を礎として行われた。言い換えれば、当時のギリシア社会の通念に照らせば、紛れもないソフィストの一員であるところのソクラテスを、凡百の思想家の群れから「哲学者」としてサルベージすること、それがプラトンの構築した狡猾な戦略であり、彼の手で綴られた数多の対話篇は悉く、この目論見を強化し支援する役目を担っている。

 「真の哲学」と「贋の哲学」とを区別すること、本物と紛い物との厳密な線引きを行なった上で、一方的な優越性を論証すること、これはプラトンの思想的戦略における常套手段である。この手法は彼の思想そのものの基底を形作る根幹的な手続きであり、彼の対話篇に登場する仮想的なソクラテスは常に、こうした二元論的な「分割」の論理を徹底的に濫用している。「真贋」の境界線を明示した上で、相手が「贋」の領域に属していることを精緻な論証を通じて揺るぎない事実に高めていくプラトンの方法は、著名な「イデア」(idea)に関する学説や、古典的な霊肉二元論(それ自体はプラトンの独創ではない)の裡にも明瞭に刻み込まれ、思惟の枢要を成している。

 言い換えれば「哲学」という学術的領野は、ソクラテスを凡百のソフィストや旧来の自然哲学の系譜から峻別し、特権的な存在として聖別するプラトンの偏執的な情熱と弛まぬ精励を通じて創出され、歴史的に形成されたものなのである。単に知を愛することが、直ちに「哲学」という方法を指し示す訳ではないし、そもそも「哲学」という営為が、地理的=歴史的な制約を離れた普遍的で恒常的な思惟の様式であると信じることは、一義的に妥当な判断であるとは言い切れない。けれども、プラトンソクラテスの思想を普遍的で恒常的な「真理」の開示として物語ることを、自らの終生の使命として堅持し続けた。

 プラトンは厳密な「真理」の論証を、本来的な「哲学者」の取り組むべき課題として称揚し、単に説得の可否を以て論証の真贋を判定するソフィストたちの迎合的な「弁論術」を厳しく糾弾した。しかし、そのような糾弾が常に正当で公平なものであったと素朴に信じ込むことは可能だろうか。また、そのような「哲学者」の象徴として祀り上げられたソクラテスの「虚像」が、その歴史的な実像と完璧に照応していたと考えるのは適切な判断だろうか。プラトンソフィストの特徴を「智者であるように見せかけながら、実際には智者ではない」という命題に要約する。初期の対話篇を通じて描かれるソクラテスの「問答」(dialektike)は、何らかの明示的な知識を提出する代わりに、専ら相手の「無智」を浮き彫りにするという「アポリア」(aporia)の範型を遵守している。その意味では、ソクラテスソフィストたちの欺瞞的な知性の脆弱さを曝露する弁論家として定義されるべきだろう。しかし、これは後年のプラトンが到達した「哲学者」の理想的な範型と精確に重なり合うと言えるだろうか。「イデア」や「想起」に就いて滔々と論じる仮想的なソクラテスの姿は、初期の対話篇に登場する「アポリア」の弁論家としてのソクラテスとは明らかに異質である。寧ろ「自分は真実に就いて何も知らない」と前置きしながら、精緻な論証を積み重ねて相手の学説を自滅的な破綻へ追い込むソクラテスの人の悪い手口は、正にソフィストの典型的な様態ではないだろうか。

 ソフィストを否定し、ソクラテスを聖別するプラトンの戦略は、多様な可能性を孕んでいた古代ギリシアの思想に排他的な純化を施すものである。それならば、闇に葬られた往古のソフィストたちの思想を検証し、正当な復権へ導くことは、古代ギリシアの思想に対して加えられたプラトンの強力な検閲を解除し、埋蔵された知的な資産を奪還して、新たな可能性を開拓することに等しい。それは同時に、プラトンによって濾過され変造されたソクラテスの歴史的な実像を恢復することにも帰着するだろう。

ソフィストとは誰か? (ちくま学芸文庫)

ソフィストとは誰か? (ちくま学芸文庫)

  • 作者:納富 信留
  • 発売日: 2015/02/09
  • メディア: 文庫