サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

色欲と懲罰 三島由紀夫「山羊の首」

 三島由紀夫の短篇小説「山羊の首」(『ラディゲの死』新潮文庫)に就いて書く。

 この作品の主題であり、全篇を束ねる寓意の焦点でもある「山羊の首」の反復的な登場は、太宰治の虚無的な短篇小説「トカトントン」を多くの読者に想起させるのではないだろうか。太宰の小説の語り手が「トカトントン」という金槌の幻聴を耳にする度に「虚無」という言葉では到底片付かないような、急激な意欲の阻喪に襲われるのと同じく、熟練の「女蕩し」であるダンス教師の辰三は「山羊の首」の幻像に捉えられる度に、持ち前の漁色への執拗な情熱を忽然と失ってしまう。こうした現象は容易に「金閣寺」において、語り手の寺僧が女を抱こうとする都度、俄かに顕現する完璧な「金閣」の幻影に劫掠されて、性的不能の状態に陥落するという場面を連想させる。「金閣寺」における幻影の臨在は、超越的な「美」の「イデア」(idea)によって感性的な現象界における相対的な「美」が駆逐され、無効化されるという含意を備えているが、果たして「山羊の首」は如何なる権威の介入を示唆しているのだろうか。

 その女とすごした夜の明け方ちかく、彼は夢うつつに身の毛のよだつようなものを見た。山羊の首であった。それは彼のすぐ前におり、彼と女の寝姿を、あの無意味きわまる視線でじっと見据えていた。とたんに彼には自分と女とが牛蒡の切れっぱしよりももっと無意味で滑稽なものに感じられた。夢からさめるや彼は腹立たしげに起き上り、女をほったらかしてさっさと先に帰った。(「山羊の首」『ラディゲの死』新潮文庫 p.44)

 「山羊の首」が顕れるのは決まって「一人一人の女との最初の逢瀬が万事万端済んだ頃合」(p.44)であると説明される。この厄介で不吉な幻影の登場によって、辰三と女との「媾曳」は、その後の関係の深まりを悉く阻まれ、たった一夜の情事に留まることを余儀なくされる。言い換えれば、この「山羊の首」の血腥い幻像の登場以来、辰三は今まで自ら好き好んで積極的に追求していた「漁色」の享楽を、殆ど強迫的に求めざるを得ない境遇に追い遣られてしまったのである。

 しかし彼には山羊の首を憎むことはできかねた。度重なるにつれ、彼は女を口説きながら、あとで来るであろう山羊の首をひそかに心待ちしている自分を識った。それはあの抽象的な快楽から彼を遠ざけようとする心の動きだ。なぜなら、珍種栽培家の冷淡で好事な探究慾はそうなった以上辰三にはゆるされず、どのみち現われる山羊の首という同一物への具体的な怖ろしい日常の欲求が彼をそそのかすようになったのだから。(「山羊の首」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.44-45)

 従来の辰三の女に対する享楽的な欲望は、特定の個人に対する情緒的な執着とは隔絶していた。彼は特定の女を愛しているのではなく、一般的で抽象的な概念としての「女」或いは「女」の「イデア」に惹かれてきたのである。従って不特定多数の女と次々に情事の時間を持つことは、何らかの篤実な倫理的関係、共生的な紐帯の構築を全く含意しない。それは水槽の中の取り取りの美しい熱帯魚を観賞する享楽に類似している。人間同士の対等な関係ではなく、超越的な支配者と受動的な獲物との非対称的な関係が無限に構築され、破壊されていくに過ぎない。

 「山羊の首」の臨在は、そのような抽象的概念としての「女」の渉猟を一種の義務、抗い難い至上の命令に高めてしまう。彼は望んで漁色に耽るのではなく、漁色の執行を強いられているのだ。「山羊の首」の幻影が眼裏に浮かび上がる度に、彼は広義の「不能」に囚われ、女への即物的な情熱を剥奪されてしまう。だからこそ、総ての逢瀬を一度で打ち切り、他の女へ乗り換えるという遽しい奔走を維持せざるを得ないのである。

 世間から彼に奉った女蕩しという看板にますます磨きをかけだしたかの如く見えながら、彼は今女蕩しという種族の反対側に住んでいる種族としての自分を感じた。

 ――そういう辰三の胸に漲って来た初々しいためらいを、今の彼はさして不思議なこととも思わなかった。何やらんそれは実意のあるためらいだ。

 香村夫人をだけは山羊の首の現われない場所で愛したいとねがう純潔なためらいと、この女をだけは山羊の首の出現なしに愛し了せてみせるぞという純潔な心はやりと……(「山羊の首」『ラディゲの死』新潮文庫 p.45)

 強いられた漁色が、却って辰三を純潔な精神の持ち主に仕立て上げている。この箇所における「純潔」の含意を参照する限りでは、繰り返し登場する「山羊の首」は不実な関係に対する抑圧の機能を伴っているように読み取れる。「山羊の首」に対する辰三の密かな「心待ち」は、享楽的な漁色に対する罪責感情の仄かな反映のようにも感じられる。香村夫人に対する特別な執着と「山羊の首」の幻像は、辰三に享楽的な漁色家としての実存を許さない。しかし一体、この「山羊の首」の幻像の正体は何なのだろうか?

 あれは草の上で、つやつやした白い毛を日にかがやかせて、因業な口つきで、彼と田舎娘の、彼と誰それの、……一つ一つの寝姿をじっと見詰めていた。軽蔑ならまだ耐えられる。憤りや嘲笑ならまだ耐えやすい。しかしあの目つきには耐えられない。あの山羊の何の意味もない見詰め方に出会っては、この世界で太刀討できる人間があろうとも思われない。あの目つきで見つめられたら最後、人間の幸福も希望も愛情も、迅速で巧妙な殺人のように、即座に消し去られてしまうのである。と謂って殺された山羊の口もとに悪意の翳さえないことがいよいよ救われない。……(「山羊の首」『ラディゲの死』新潮文庫 p.50)

 「山羊の何の意味もない見詰め方」は、武田泰淳の小説「異形の者」で描かれる釈迦如来の仏像の「眼」を想起させる。「山羊の首」の虚無的な視線は、必ずしも道徳的な罪責の観念を齎すものではない。それは辰三の享楽的な漁色の行為を「軽蔑」したり「嘲笑」したりする人間的な感情の動きを聊かも含んでいない。厳密に言えば「山羊の首」の放つ視線は「人間の幸福も希望も愛情も」悉く抹殺し、無効化するのである。そうであるならば、辰三が「山羊の首」に対して懐く恐懼のような感情は、道徳的な後ろ暗さの比喩的な幻想ではない。辰三が「山羊の首」に見出すのは、如何なる人間的な感情や思考のアナロジーにも該当しない、徹底的な無意味さなのである。それが彼を幻滅させ、虚無的な境地へ追い遣り、一時的な「不能者」へ仕立て上げてしまう。しかも、彼を「不能者」に作り変える強烈な放射線の如き「山羊の首」の視線は、最低限の「悪意」さえも超越している。

 あたりの草は血に汚れていた。が、年老いた山羊の首は清浄で威厳に満ち、深い眼の色で辰三と田舎娘の寝姿を見詰めていた。それはそしるような眼差ではなかった。審く者の眼色に近いかはしれなかった。しかし審く者の眼差にしては、その目が湛えている暗さは濃すぎるように思われた。(「山羊の首」『ラディゲの死』新潮文庫 p.43)

 この箇所でも「山羊の首」の視線が「批難」や「断罪」といった懲罰的で倫理的なニュアンスを含んでいないことが強調されている。「その目が湛えている暗さは濃すぎるように思われた」とは如何なる意味を含んだ表現だろうか? この記述を裏返せば、仮に「山羊の首」が「審く者」の比喩的幻想であるなら、その「眼色」はもっと明るく輝いていなければ辻褄が合わないと言っているように読める。つまり、明瞭な正義の基準に照らして他者を審判する者の「眼色」には、秋霜烈日の光輝に鎧われた、聊か陶酔的な確信の明るさが反映しているべきだと考えられるのである。

 「山羊の首」が「審く者」でも「謗る者」でもないとしたら、それは一体「何者」なのか? この「山羊の首」の登場する時機が「敗戦」の直前に置かれていることは、何らかの暗合を示唆していると考えるべきだろうか? 徴用された少年たちに盗み出され殺された「山羊の首」は、敗残した者、あらゆる栄光から見限られ、空無に帰せられた者の象徴的な表象なのだろうか? その幻影は、辰三を一つの「虚無」へ絶えず回帰させる。如何なる収穫も歓喜も贋物の浮薄な感情に過ぎないと気付かせる、乾燥した「山羊の首」の啓示は、空前絶後の巨大な「敗戦」が齎した甚大な「虚無」の衝撃の裡へ、辰三を常に引き戻すのだろうか?

 「戦争」という主題が、三島由紀夫の文業を隅々まで支配する重要な成分であり要素であることは、夥しく遺された他の作品を徴しても判然としている。有名な「金閣寺」において、寺僧の溝口は「敗戦」を忌まわしい「仏教的時間の復活」と捉えて露骨に呪詛している。三島の作品は「戦後」という特殊な時代の変遷と密接に同期し、多彩な様相を描いてみせた。「敗戦」は、三島の「夭折」に対する浪漫主義的な情熱を完膚なきまでに破砕し、荒廃した退屈な「日常性」の復権を告示した。この「山羊の首」という作品もまた、そうした「戦後」という時代的特質と切り離して評釈する訳にはいかない。

 「辰三のような男にとっては戦争は映画館の幕間みたいなものにすぎなかった」(p.43)という冷笑的な但書が事実であるとしても、少なくとも彼は「戦前」の自分自身には戻れなかったに違いない。何故なら、彼は「敗戦」の差し迫った横須賀の「五月の明るい高草の中で」女と戯れながら、あの「山羊の首」に邂逅してしまったからだ。享楽的な生活の態度が改まることはなかったとしても、少なくとも「山羊の首」を知る以前の自分に「戦後」の辰三が完璧な仕方で合致し、復帰することは不可能だった筈である。言い換えれば「敗戦」を通過した後の辰三は、即自的な享楽に安住する能力を喪失してしまったのだ。彼は昔のように「抽象的な快楽」を夢中で愉しむことが出来ない。だが、その決定的で不可逆的な変質は何故、齎されたのか?

 かほどに幼々ういういしいためらいが胸に漲っていることはいつもの辰三にはないことだった。それというのが、彼が田舎から出て来て堅気一方の二十歳のころ、書生をしていた家の夫人に香村夫人は似ていたからだ。(「山羊の首」『ラディゲの死』新潮文庫 p.41)

 この記述だけを信じるならば、辰三の香村夫人に対する特別な執着は、青春期の純潔な恋心への郷愁の反映に過ぎないように思われる。彼は既に無差別的な「漁色」の享楽に安住する能力を「山羊の首」によって奪われている。それならば、彼が「香村夫人をだけは山羊の首の現われない場所で愛したいとねがう」のは、要するに「山羊の首」の顕現する以前の世界へ回帰したいという願望の反映ではないのか。傍目には、辰三は戦前と変わらぬ軽薄な「女蕩し」の生活を堅持しているように見える。しかし彼が香村夫人を口説こうとして駆使する技巧が「女蕩し」の修練の所産であるとしても、その技巧を稼働させる根本的な情熱の性質は「女蕩し」の特性の対極に位置するものである。

「あなたその山羊の顔をこちらから見詰めて?」

「いいや」

「見詰められて脅えていただけなの?」

「まあそうだ」

「可愛いいところがあるのね、先生ったら。こっちから見詰めてやれば山羊の首なんて忽ち消えてなくなるのよ」

「そんなものかしら」

「こんな風に……」

 睡たそうな情のある眼が、辰三の眼の先二三寸のところで暗い瞳のひろがりを示した。暗い甘いものがいちめんに滲み出すような瞳であった。

「こちらを見詰めてごらんなさい」

 辰三が言われたようにすると、突然瞼がやわらかに下って来て、美しい睫の影をえがいた顔が彼の胸に雪崩れかかった。

「君が好きだ。こんな好きな人は知らない。君と寝てもし山羊の首を見るようだったら私はもう生きてはいないよ」

 女蕩しはそんなことを言った。

 香村夫人はそれでもまだ語調は端麗に、わずかな崩れも見せない言葉で言った。

莫迦なこと仰言い。夢は人に言ってしまったらもう見ないものです。あなたはこれから山羊の首なんか決してごらんにはなりません」(「山羊の首」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.50-51)

 香村夫人は辰三に「山羊の首」の幻影が齎す抑圧を免かれる為の方途を示唆する。「山羊の首」の視線に射竦められるという受動的な立場を脱却して、此方から能動的に「山羊の首」を見凝め返せば、そのような幻影は消滅すると彼女は宣告する。しかし、その根拠は何なのか? 彼女が辰三の苦悩を「戯言」と捉え、冗談と媚態によって報いたに過ぎないのであれば、彼女の訓誡に積極的な意味を読み取ることは難しいだろう。しかし、彼女は「わずかな崩れも見せない言葉」を用いて確信的に「あなたはこれから山羊の首なんか決してごらんにはなりません」と断定する。この確信は、如何なる論理に基づいて形成されているのだろうか。論理的に考えて、香村夫人が「山羊の首」を消滅させる方法を断定し得るとすれば、彼女は辰三よりも高い次元で「山羊の首」の性質や構造を知悉していなければならない。しかし、彼女が辰三から聞かされる以前に「山羊の首」に就いて何らかの情報を把握していたと看做し得る記述は、作中には含まれていない。彼女は単なる出任せを口にしたのだろうか?

 ――この聡明たぐいない、啓示の力をさえ持っているかと疑われた女の予言は的中した。彼ははじめて山羊の首なしに迎える女との朝を知った。「女との」という言い方が正確さを欠くなら、訂正の必要がある。なぜなら曇り日の海の遠い反映が投げかける正午に近い鉛いろの光線に彼は目ざめて、(彼がこんなに寝坊をしたことは嘗てなかった)香村夫人がもう寝床にいないのを見出した。バス・ルームをあけてみた。いなかった。ボオイを呼ぶと、朝早く散歩に出たとのことだった。彼はぶつぶつ言いながら一人の午餐をとりに食堂へ下りるために、上着を着ようとして、その内かくしから、彼の全財産――万事を放擲して滞在する心宛てに携えて来た全財産――が、失くなっているのに気づいた。

 彼は一日中何もたべずに寝台に腰かけたままぼんやりしていた。香村夫人はかえって来なかった。彼女の寝ていたところには白粉や香料の匂いにまじって、かすかな山羊の匂いが漂っていた。(「山羊の首」『ラディゲの死』新潮文庫 p.52)

 この記述は明らかに香村夫人が「山羊」であった可能性を示唆している。しかし、その迂遠な示唆は如何なる具体的内実を規定していると言えるだろうか。香村夫人を「山羊」の化身と定義してみたところで、評釈の水準が深まるとは思われない。だが、香村夫人と「山羊の首」との間に何らかの関係性が存在すること自体は否定し難い。辰三が香村夫人との情事において「山羊の首」の虚無的な視線に遭遇しなかったこと、香村夫人が「山羊の首」を消滅させる方法の一環として、自分の顔を見凝めるように辰三に指示したこと、これらの記述を綜合すると、香村夫人が「山羊」であることは明瞭な事実であるように考えられる。だが、香村夫人が「山羊」であるという命題を、そのまま物理的に解釈することは出来ない。

 そもそも、何故「山羊」は殺された状態で辰三の脳裡へ顕れたのだろうか? 無論、その幻影の淵源が、敗戦の直前に彼が目撃した「山羊の首」である以上、彼が殺された「山羊」の幻影に苛まれるのは自然なことのように思われる。けれども殺された「山羊の首」を見たという事実と、彼を苛む幻影が殺された「山羊の首」であるという事実は、必ずしも強力に連結されている訳ではない。彼が生きた「山羊の首」を、或いは胴体を備えた「山羊」を幻視することも充分に有り得たからである。言い換えれば、殺された「山羊の首」の幻影は、何かが虐げられ毀損された状態を暗示しているのではないか。「緑の夏草と血と白い神々しい山羊の首との何か寓意画めいた印象」(p.43)は、何らかの価値が毀損され、失われた状態に置かれていることを告示しているのではないか。

 古代ギリシア及びローマの神話的伝承に登場する山羊の神である「牧羊神」(pan,faunus)は、男性的な性欲の象徴と看做され、その「陰茎=ファルス」(phallus)は誇張して描かれることが多い。仮に「山羊」を「色欲」の暗喩と看做すならば、殺された「山羊の首」の幻影が「不能」を齎すという説話論的な構造は理に適っているように見える。「山羊の首」は「抑圧された色欲」の寓意画であると看做し得るのだ。では、香村夫人の残り香に「かすかな山羊の匂い」(p.52)が含まれているのは、端的に言って「色欲」の暗示であると言えるのだろうか。そうであるとするならば、要するに辰三は香村夫人との情事を通じて「色欲の抑圧」即ち「不能」からの恢復を遂げたことになる。「山羊の首」が顕現する以前の世界へ回帰したいという欲望は、言い換えれば「山羊」が殺戮される以前の世界へ回帰したいという意味である。だが、そもそも何故「山羊」は殺害されたのか?

ラディゲの死 (新潮文庫)