サラダ坊主日記

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「政治」への冷笑 三島由紀夫「大臣」

 三島由紀夫の短篇小説「大臣」(『ラディゲの死』新潮文庫)に就いて書く。

 この小説は、所謂「政界の内幕」を活写した体裁の作品である。尤も、作者は国家の政策に関する具体的な持論を述べたり、現行の政権に対する批難や嘲罵を露わに示したりする為に、こうした舞台装置を採用している訳ではない。登場する人物への皮肉で冷笑的な筆致は、相手が政治家や官僚だから、そのような含意を孕んでいるのではなく、三島の犀利な心理的鑑識眼は、不倫に溺れる男女に対しても、定型的な幸福に安住する戦後的な若者に対しても、等しく仮借無い分析の放射線を注いでいるだけなのである。

 端的に言って、この小品は「左翼政党の内閣が瓦解した」(p.55)ことを契機として新たに選任された財務大臣と、彼を迎え入れる財務省の官僚との隠然たる相互的反目を綿密に描き、浮かび上がらせている。因みに末尾に附せられた執筆の日付(1948年11月30日)と、作中の時間的設定に関する記述(「三月はじめの沍返った京浜国道の午後八時」p.54)に基づいて推察する限り、この作品は片山内閣の総辞職及び芦田内閣の組閣という史実を踏まえて綴られていると考えられる。

 とはいえ、政界の内幕を実録的に描き出すことが作者の眼目であったとは思われない。三島が作品の執筆に際して事前の綿密な準備を怠らない作家であったことは広く知られているが、例えば昭和期の事件に取材した代表的な傑作「金閣寺」においても、蒐集された写実的な材料は、実際に起きた出来事の厳密な再現を期して用いられるのではなく、飽く迄も作者の主題を鮮明に造形する手段として改鋳され、消費されている。彼は在るがままの加工されない史料的な現実に魅惑される種類の人間であるというよりも、徹底的に書き換えられ、演出され、華麗に彩色された絢爛たる非現実的な世界に耽溺する種類の人間なのである。

 この作品における新任財務相と官僚との秘められた鞘当ては、国木田の「就任挨拶草稿」を蝶番として展開される。彼は草稿の作成を他人の手に委ねることを肯わず、自ら直筆で起草することに固執する。

 前大臣の鷹揚な『あなたまかせ』につけこんでしたい放題をしたといわれる省首脳部への面当てと、もう一つには自祝の気持から、国木田はその原稿を自分で書くことを、松方秘書官に申し渡した。彼のおどろくべき悪文は、金融界でも名うてのものだった。その文章の天真爛漫な下手さ加減が、却って彼の生れの卑しさを隠すのに役立っていた。(「大臣」『ラディゲの死』新潮文庫 p.58)

 国木田の「就任挨拶草稿」には、彼が蛇蝎の如く忌み嫌う官僚たちへの敵意と対抗心が注ぎ込まれることとなる。彼はその具体的な術策として、自分が過去に関係を持った女の名前を草稿の文面に織り込むという悪戯を仕掛ける。だが、この着想は充分に効果的で卓抜なものであると言えるだろうか? 国木田の旺盛な女性遍歴に登場する数多の人名を、彼の周辺が悉く諳んじているようにも思われない。誰も詳さに知らない女の名を忍ばせた原稿を読み上げたところで、それが官僚の暗愚な性質を傍証する根拠となり得るだろうか。

 国木田の草稿は、秘書課長の手を通じて、財務省の幹部たちによる悪意に満ちた検閲に曝される。幹部たちの首魁であり、来期の次官と目される予算局長は、国木田の草稿に仕込まれた好色な悪戯に就いては具体的に察しないが、その文面に滲む官僚への悪意自体は適切に看取する。予算局長は草稿を国木田本人に無断で訂正するという暴挙を提案し、自ら下手人の役回りを引き受けて、大臣に対する悪意に満ちた牽制を実行に移すことを画策する。

 ――清書の原稿を読み出した国木田の眉が動いた。受け口の下唇が不気味にせり出した。一二三も、秀勇も、寿美江も、桂子も、小里も、栄龍も、京子も、その演説からきれいに姿を消していた。自分の知っている美しい女はみんな死んでしまったように思われた。しかし彼のしぶとい、傲岸な若さ、古革のように岩乗に硬化した若さがよみがえった。女を張り合う勇気にひとしいものを復讐が要求した。直感で予算局長の仕業とわかっていた。(「大臣」『ラディゲの死』新潮文庫 p.69)

 草稿の文面がどのように書き換えられたのか、具体的な例示は作中の本文の裡には含まれていない。国木田が智慧を絞って草稿に織り交ぜた女たちの名が、清書の段階で丹念に抹殺されているという事実も、果たして偶然の産物なのか、それとも国木田の意図を踏まえた上で厳格に為された処理なのか、判然としない。兎に角、草稿を無断で書き直すという非礼極まりない措置が、官僚側の旺盛な敵愾心を国木田に知らしめたことは確かである。国木田は持ち前の鋭利な直感で、その首謀者が予算局長であることも見抜いている。

 草稿の改竄に激昂し、下手人を暴き立てようと試みたとしても、官僚の側が白を切ることは確実であろうし、何れにせよ、そのような見苦しい係争に費やし得るほどの余剰な時間は存在しない。本来の草稿のままに演説するとしても、恐らく原本の写しは存在せず、徹底的に書き換えられた清書の原稿から原状の恢復を図ることも困難であろう。国木田は敢て改竄された原稿を粛々と読み上げ、途中で「急進的だと評判の財務相職員組合」(p.71)に阿諛する皮肉な演説を披露することで、予算局長に対する隠然たる報復を行なう。

 それにもかかわらず、聴衆の大多数には、この多少の奇蹟を身を以て成就している恰幅のよい新大臣が、一人の風変りな煽動者アジテイタアと映るのだった。大臣の肥った首をしめつけているカラーが熱弁につれて白い蝶のように跳ね上った。下唇が唾液に濡れ、口の両はしに馬のように唾が溜っていた。彼は自ら知らずして何ものかの教義に忠実を誓っている人間のように見えた。一種の誠実、発作的な、殆ど自分でも制禦しかねる憑依現象的な誠実が、彼の血色のよいだぶだぶな顔を隈取っていた。だからこそ彼のまわりの聴衆には、神がかりの男をとりまく古代の群衆の静けさがあるのだった。(「大臣」『ラディゲの死』新潮文庫 p.72)

 国木田が夢中で「職員組合」の功績を讃美するのは、それが相対的に財務官僚の首脳陣の有する威光や権益を脅やかし、彼らの体面を毀損する効果を発揮すると思われたからである。大臣の立場でありながら、無闇に急進的な組合を賞讃する「風変りな煽動者」として、国木田は熱狂的な宗教家の風貌を帯びる。彼は無私の情熱を以て、下僚の称揚に励んでいるように見える。しかし本来の彼は、官僚という生き物が何よりも大嫌いなのだ。官僚に対する憎悪ゆえに、官僚を讃嘆する情熱的な演説を披露する。この滑稽な逆転が「大臣」という小品の白眉を成していることは明瞭である。

 作者が、こうした一連の成り行きを冷笑的に眺めていることは、作品の末尾に登場する年老いた「青江事務官」の描写によって強調されているように思われる。彼は自分の職務に忠実である余り、新たな大臣の名前すら認識していない。「閣僚の一覧表と記念写真の掲載された、明らかに今朝のとわかる新聞」に触れようともしない。只管に鉄筆でガリ版を書きながら、呪文のように数字を唱え続けるだけである。国木田と予算局長との政治的な鞘当ては、彼の身辺に如何なる風波も及ぼさないのである。或いは作者は、財務省という組織における最も強固な既存勢力は、新任の大臣の名前すら把握しようとしない筋金入りの下僚である青江事務官のような人間だと、然り気なく示唆しているのだろうか。

ラディゲの死 (新潮文庫)