サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

戦後的ニヒリズムの肖像 三島由紀夫「魔群の通過」

 三島由紀夫の短篇小説「魔群の通過」(『ラディゲの死』新潮文庫)に就いて書く。

 この作品に登場する人々は何れも癖の強い、奇態な性質の持ち主ばかりである。主役に当たる伊原を除いて、彼らは何れも敗戦による社会の激変によって著しい没落を強いられたという共通項を有している。そして作品の全篇を充たしているのは、この没落から生じる破滅的な頽廃の匂いと、殺伐たるニヒリズムである。ここには甘美な夢想、三島が数々の作品で描いてきた浪漫主義的な幻想は殆ど含まれていない。

 この仲間で唯一人戦後の落伍をまぬかれた立場から、この人たちを前にしては謙虚であろうと努めることで、伊原は嘆かわしい軽さわぎに耐えることができた。尤もその謙遜自体におびただしい軽蔑の甘味を盛り込みながら。(「魔群の通過」『ラディゲの死』新潮文庫 p.82)

 戦後的ニヒリズム、という抽象的な言葉で、この作品に漂う頽廃的な空気の組成をラベリングすることは可能だろうか。敗戦によって、日本社会の価値観や正義、真理の内実は急激な転回と改訂を強いられた。華々しく悲愴な軍国主義は全面的に断罪され、交戦権の抛棄、国民主権、経済的繁栄が、戦後の日本社会を嚮導する基本的な方針として採用された。そうした新規の理念に共感し得ない者、敗戦による堅牢な日常性の再建を受容し難い者は、戦後的社会の繁栄を呪詛し、憎悪することになるだろう。そこに生じる深刻なニヒリズムの病弊は、三島由紀夫の文業に伏流する最も重要な主題の一つとして定義することが可能である。

 ――嘆かわしい人たちだった! あらゆる滋養分をうけつけない瀕死の病人の胃のように、彼らの魂は何らかの有効なもの・有意義なもの・高いもの・美しいものをうけつけられない状態にあり、強いての摂取は死をもたらすのだった。しょうことなしに彼らはヴィタミンを軽蔑していた。事実それは彼らに毒なのであったから。今では彼らを衰亡にみちびく類いの元素だけが、辛うじて彼らの胃に受け入れられた。モルヒネ中毒者がモルヒネ以外の何ものをもねがわないように。(「魔群の通過」『ラディゲの死』新潮文庫 p.84)

 戦後社会において唯一「没落」の憂き目を免かれ、新時代の論理に適合して野心的な栄達の階梯を着実に昇りつつある伊原に主要な視点を置きながら、作者は戦後的ニヒリズムの毒牙に蝕まれて多様な醜態を晒している人々の「症状」を解剖しているのだと言えるかも知れない。彼らは社会が認める共通の価値に対して賛同したり従属したりすることが出来ない。彼らの没落と窮乏は、彼らの存在が戦後的な価値観の体系に適合しないことの反映である。彼らの衰亡は不可避の経路であり、寧ろ没落だけが、彼らの有する旧来の価値観への忠誠の証明なのである。

 十畳の座敷には座蒲団が敷き並べられ、床の間の前に十六ミリ用の映写幕が立てられていた。フィルムはむかし蕗屋が巴里で買い蒐めて持ちかえったものだった。五人のうち三人までが巴里を過去に持っている今夜の客は、それらのフィルムがエロティックだからというだけの興味で来るためには薹の立った人たちばかりだったが、彼らののぞみはむしろすぎし日の遊楽のいちばん露わな偽りのない映像に、追憶のなかにあるいわば「酔わせない酒」ともいうべきもの、非情な情緒・明晰な陶酔ともいうべきものを見出すことにあるのだった。それはおそらく今日の時代が至るところで彼らに思い起させる過去へのいたましい憧憬を、苦しみのない方法で癒やしてくれ、その憧憬をいつも一そういたましいものとする回想の甘味を処理して、生の炭酸水のような味わいのものに造りかえてくれるはずであった。(「魔群の通過」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.86-87)

 作品の前半の山場を成すブルーフィルムの上映会の場面は、聊かも官能的で煽情的な要素を含んでいない。観衆たちの主要な関心は劣情を催すことではなく、過去の享楽的な日々の栄華を懐古することに置かれているからである。それは単に感傷的な郷愁に溺れる甘美な悦楽を意味するものではない。甘美な追憶は、それが甘ければ甘いほどに一層、現状との深刻な落差を実感させ、彼我の距離を冷酷に痛感させる危険な副作用を伴う。ブルーフィルムの上映と鑑賞は、必ずしも過去へ回帰したいと想わせるものではなく、ただ享楽的な過去の純然たる記録に留まることによって、恐らくは一種の痛みのない安息を、魔群の人々に与えてくれるのである。それは栄光に満ちた幸福な過去の実在を報せる間接的な符牒に過ぎず、豪奢な生活の記憶を直ちに明瞭な映像として具現化するものではない。

 ところがこうした想像力の詩にはあやまちがあった。けだるい映写機械の響きにつれて、画面の中をころがりまわる男女のモデルのように、この人たちがただ金のために真率に愛し合うことができたとしたら、大正時代はおろか、現代に住みつつ憂目を見ないで力に溢れて生きていられる筈なのだった。彼らの衰亡はひとえに、自分自身への不実から来たのであるから。――たまたま成功をつづけている伊原にしても、偶然が許した例外というだけで、本来この人たちの一族に属すべきことに変りはないのだ。(「魔群の通過」『ラディゲの死』新潮文庫 p.89)

 この記述は、具体的に何を意味しているだろうか。「金のために真率に愛し合うこと」という表現は恐らく、戦後的社会を支配する最も強力な倫理的規矩、即ち「経済的繁栄への奉仕」に対する忠勤を示唆しているものと考えられる。それが出来ないからこそ、彼らは不可逆的な没落と衰亡の途上にあることを強いられているのである。しかし、その次の「彼らの衰亡はひとえに、自分自身への不実から来たのであるから」という記述は、何を意味しているだろうか。「自分自身への不実」とは具体的に如何なる言行を指すものなのか。要するに彼らは「自分自身」に対する誠実な態度を欠いていると定義されている訳だが、それは如何なる理由に基づく現象なのか。

 上記の一節を整理すると、彼らが「金のために真率に愛し合うこと」が出来ないのは「自分自身への不実」が原因であると言われているように解釈し得る。言い換えれば、経済的利潤の追求に対して夢中で献身的な姿勢を貫くことは、自分自身に対する「誠実」を含意するという考え方が、この一節には混入されている。だが、この考え方は聊か皮肉なニュアンスを帯びていないだろうか。経済的繁栄の為に精励することこそ、自分自身に対する「誠実」の証左であると看做すことは、戦後的倫理に対する忠誠を正しい生き方として定義する考え方を前提としている。経済的な合理主義への反発は直ちに「自分自身への不実」という範疇に組み込まれる。「自分自身」に対する誠実な生き方を心掛けるならば、人は「金のために真率に愛し合うこと」を重んじなければならない。煎じ詰めれば、経済的なエゴイズムを貫徹することが「誠実」であると看做されるような性質こそ、戦後的社会における倫理の特徴なのである。

 伊原は呆気にとられて、そう言っている蕗屋の動かない表情を見詰めた。それはなお伊原の前でたじろがなかった。外から来る変動の非常識さに業を煮やした人間にはさもあるべき事ながら、蕗屋護はそうした社会的変動が自分に強いる行為の非常識さにも恬然として責任をもつまいとつとめている風だった。冷淡な父親が子供の無躾な振舞をほったらかしておくように、彼はこんな常軌を逸した自分の行動をほったらかしておくのであった。警戒すべきはただその「ほったらかし」を遮げようとする自己愛だ。いかに今の蕗屋護は利己主義者の遠くにいたことだろう。(「魔群の通過」『ラディゲの死』新潮文庫 p.92)

 蕗屋は戦後の没落に強いられ、生計の維持の為に自邸を用いた宿泊業を営んでいる。けれども、彼は経済的な合理主義に対する積極的な荷担を企図する代わりに、微妙な自己欺瞞、或いは自己の観念的な二重化を選択している。社会の変動によって齎された自己自身の変節を、彼は自己の主権の埒外における無関係な現象のように遇している。経済的エゴイズムを「誠実」と看做す論理に基づいて言えば、蕗屋は微妙な自己欺瞞の操作を堅持することによって「自分自身への不実」を保全しているのである。この欺瞞的な分離の意識を阻害するものは「自己愛」である。この場合の「自己愛」という言葉は要するに、欺瞞的な折衷を破壊し、統一的な自己を成立させようとする衝迫を示唆しているものと思われる。彼は経済的な原理に従属する自己の部分を外在化し、赤の他人のように扱っている。言い換えれば、彼は「誠実な自己」を主観的な領野から放逐しているのである。無論、それは彼の主観の側から眺めるならば「不実な自己」であるに違いないが、自己の利益という観点から眺めるならば、生計の為の変節を受け容れる態度こそ「誠実」なものであると言わざるを得ない。このような分裂は、蕗屋の胸底に屈辱的な感情を培養するだろう。経済的原理に隷属する「誠実な自己」を抱え込まざるを得ない彼の苦衷は、自分自身に対する主権の制限を意味しているからである。

 まるで魔窟へ行ったあくる朝のような、心の味気ないしこりはどうしたことか。昨夜飲んだブランディの酒量もわずかなら、昨夜の眠りも夢一つ見ない他愛のなさだ。古い友人が集まって一夕の興にエロティック映画を「鑑賞」し、その一人があくる朝頓死したというだけのことなのである。とはいうもののあそこには、単なる猥褻よりももっと始末のわるい何かがあったではないか。見知らぬ女と寝ることをさえ、たかだかトランプ遊び程度にしか考えぬ四十歳の男をして、何一つ起らなかった「紳士的な」一夜に対して嘔気を催さしめるに足る何ものかが、――引っくり返して言うならば、彼をそれほど清浄さに目ざめさせた何ものかが、――

 おそらく十数年ぶりで伊原慶雄に、あの青春期の特殊な症状である清浄な味気なさをよみがえらせた何ものかが――。(「魔群の通過」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.96-97)

 伊原がブルーフィルムの上映を頂点とする奇態な一夜に対して懐いた感情の実質とは、如何なる代物であったのか。「単なる猥褻よりももっと始末のわるい何か」とは、具体的に如何なる事象を指して吐かれた言葉なのか。「清浄な味気なさ」とは如何なる心理的状況を指し示しているのか。

 「魔群」と総称される伊原の旧友たちは、何れも現下の社会的価値観に対する「不実」を旨としている。その心理的屈折が、伊原の胸底に不快な感想を喚起していることは概ね確実であると思われる。それは単なる背徳的な遊興の齎した道徳的な嫌悪とは区別されている。馬鹿げた低俗な享楽自体が責められているのではない。非合法なブルーフィルムの鑑賞が、伊原の心に道徳的な「嘔気」を生み出しているのでもない。それよりも遥かに強烈な不快の原因とは何か。それは恐らく「魔群」たちの体現している「自分自身への不実」が培養する頽廃的な臭気であると思われる。その根底に横たわっているのはニヒリズムの病弊だろうか。時代の支配的な観念に対する抑え難い虚無的な意識、乗り超え難い不同意、そこから析出される陰惨な堕落の匂いが、伊原の倫理的な不快を煽動しているのだろうか。

「生活の苦労というものがわれわれにとってどんなものだか、その理解があなたにはまだ浅いのです。ここ二三年の私の唯一の問題は生活ということでした。みんなには簡単至極なことが、私にはどんな哲学よりも難解だったのです。しかしこの頃ようやくわかって来ました。生活するためには生活を犠牲にすればよろしい。簡単なことです。思えばわれわれの先祖たちも正直にやって来たことです」

「それなら何だってこんな陋劣な、恥知らずの稼業をやっていらっしゃるのです」――そう言う伊原はすでに半ば折れていた。煙草の灰の叩き方も静かだった。「どこかへお勤めになったらよい。及ばずながら僕も御相談に乗りましょう」

「でもね、私はそこまで落ちぶれてはいないつもりです。わたしはたとえ殺されても、何もしないでいる権利があるのです」

 このおそるべき怠け者は一瞬崇高にみえた。伊原は自分に備わっていると思われた性格らしきものを、この瞬間の蕗屋の前に再た失うのだった。彼が滑稽な従順さで言い出した。

「あなたに負けました」

 そしてその夜の宿料の前金を仕払った。(「魔群の通過」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.107-108)

 蕗屋の奇妙な論理は、何を示唆しているのか。彼は没落しても猶、経済的原理への全面的な従属を拒んでいる。「わたしはたとえ殺されても、何もしないでいる権利がある」という凄みの利いた言明は、彼が「自分自身への不実」を断じて棄却しまいと覚悟を固めていることの歴然たる反映である。彼の欺瞞的な二重性は、生半可な処世術の所産ではない。生きる為に自己を切り売りしながら、そのような自分を外在化して捨象し、徹底的に「無為」の部分を堅持しようと努めている。それは経済的原理に従属することで戦後の社会に適合している伊原には模倣し得ない独自の境涯である。「生活するためには生活を犠牲にすればよろしい」と嘯きながらも、蕗屋は断じて生活における「無為」の側面を安直に抛棄しようとは考えない。これは「魔群」の倫理であり、半ば宗教的な信条である。彼らは現代的な道徳や価値観に対する頑迷な不同意を貫いている。

 ……伊原は読みながら兇悪な目つきになった。彼は大いそぎでここ数カ月の貸借対照表を思いうかべた。彼は破綻なく行動し、肉体的にも物質的にも何らの損害を負うていなかった。魔の群はただ彼を擦過しただけであった。しかし彼の円満な良心へ羂を投げかけたこの手紙、この最後の試みは、下手をすると彼が彼自身の魂を悪魔に売り渡す端緒になり兼ねない。(「魔群の通過」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.121-122)

 要するに伊原は「魔群」たちの体現する頽廃的な屈折から距離を保とうと試みているのだ。彼は「自分自身への不実」を排斥し、戦後的な「繁栄」の理念に適合しようと周到な計算を積み重ねている。言い換えれば、伊原は「魔群」たちの骨絡みの反動的な郷愁を悉く振り払おうと努力している。彼は旧時代の廃滅を座視し、いわば「対岸の火事」のように安住の地から見送ろうとしているのだ。ブルーフィルムの上映会への招待自体が、滅びつつある旧時代の「魔群」からの誘惑に他ならない。伊原は戦後的なニヒリズムを扼殺し、健全な方法で繁栄しようと志している。焼け跡から出発する戦後的な夢想を共有しようと決意している。憐れな寺僧の溝口が「金閣」を焼き払った後に「生きよう」と呟いたように。「魔群」との戦いは、三島の内面における浪漫主義との血塗られた攻防を暗示しているように思われる。

ラディゲの死 (新潮文庫)