サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主の幸福論 1 開幕の口上

 不図思うところがあり、今回から断続的に「サラダ坊主の幸福論」と銘打って、甚だ輪郭の曖昧な「幸福」という観念を主題に、古今東西の先賢の書物を渉猟し、特定の分野に固執することなく、成る可く横断的で柔軟な思索を積み重ねていこうと発起した。

 思うところがあり、などと書くと、何やら意味深長に聞こえるかも知れないが、別に深刻な煩悶の類に強いられて、こういう奇態な計画を案出した訳ではない。私は2017年の晩秋から「体系的読書」というものを個人的に志し、専ら三島由紀夫の小説ばかりを繙読して拙い感想文を認める自家製のカリキュラムを自らに課してきた。ただ、根本的には人為的な「虚構」に過ぎない小説だけを集中的に読み漁ることへの疑念も捨てられず、昨年の早春頃からは、古代ローマの賢人セネカの書物を皮切りに、哲学や思想の範疇に属する書物に就いても、成る可く歴史的な時系列に即して(文化というものは必ず先賢の叡智を踏まえて新たな成果が積み上げられていくものであるから)素人ながら精一杯の読解を試みるようになった。

 けれども、単に「思想」という条件で読書の対象を絞ろうとしても、当然のことながら、その及び得る範囲は極めて広大で、個々の思想家の性質や主題も実に多様である。古代ギリシアソクラテスと、古代インドの仏陀とを同列に並べて「思想」という括りの下、縦横無尽に読みこなせるのは余程明晰で強靭な頭脳の持ち主だけであり、そんなことを試みても凡人の身分では圧倒的に寿命が足りない。ギリシア語の原典を直に読みこなせる本格派の学究でさえ、生涯を費やしてもプラトンならばプラトンの研究の現場に僅少の成果しか附加することが出来ない現実を考え合わせると、現代の日本語しか扱えない市井の庶民が、無闇に「思想」と息巻いて我流の読書に励むのは、聊かも体系的な読書とはなり得ないだろうと思われる。

 三島由紀夫の繙読に就いても、彼の作品を残らず読み通すことは分量的に不可能ではないが、果たして自分は片端から三島の著作を読解して(そもそも読解出来ているのかどうかも怪しいのだが)最終的に何処へ辿り着こうとしているのか、という根本的な懐疑を棄却することが出来ずにいる。私は三島の小説の中では「金閣寺」が好きで、元々は「金閣寺」の読解の水準を向上させる為に他の作品にも眼を通そうという魂胆で、先述した「体系的読書」という壮麗な計画を立ち上げたのだが、その計画が果たして自己の如何なる実存的関心に適合しているのか、次第に心許なくなってきた。そうやって足許が揺らいできて、三島を読んでいるとプラトンが気懸りとなり、プラトンを読んでいると三島が恋しくなるといった具合に、方針の混乱が避け難く顕在化するようになり、鬱々たる心境に陥った。三島由紀夫の「金閣寺」は好きでも、或いは三島の遺した夥しい分量の犀利な批評的随筆の類は興味深く読めても、私は別に三島の全作品を愛している訳ではないし、例えば彼の政治的思想などには一抹の関心も有していない。何だか我ながら偏屈な企てに自縄自縛になっているなという想いが拭えなくなってきた。とはいえ、ただ既定の計画を投げ出すだけでは面白くないし、無益である。

 そこで「幸福」という主題の下に横断的な読書を繰り広げてみるのはどうだろうか、という考えが急浮上した次第である。何故「幸福」なのか、と問われれば、率直に申し上げて思い付きである。しかし、私にとって「幸福」という主題は、多くの人間にとってそうであるように、生きる上で最も重要な概念であり、しかもその素性の見極め難い曖昧さは図抜けている。誰でも気安く「幸福」という言葉を用いるが、その正体を精確に見定め、その組成を漏れなく把握している人は稀である。そもそも私がセネカを読んだのも、その文章が人間の「幸福」に就いて、別の言い方を用いるならば倫理的な規範に就いて、有益な助言や勧告を豊富に含んでいると思われた為であった。

 中学生の頃、私は思春期に固有の悩み(本当に固有かどうかは定かではないが)に苛まれ、自分が何の為に生きているのか明確な理由を保持することが出来ず、未来において如何にして生きれば良いかも自信が持てず、じめじめと陰気な懊悩を病んでいた。その頃は禅宗の教義に救済の方途を求めて、図書館へ通って鈴木大拙の著作などを分からないなりに耽読し、高校には進まず出家でもしようかと半ば本気で思い詰めた時期もあった。或いは武者小路実篤の呑気な随筆や小説を読んで、自分もこんな風に楽天的な人間になりたいと強く憧れたり、坂口安吾の「堕落論」や「日本文化私観」を読んで融通無碍の「無頼」の自由な境涯を崇拝したりもした。寺山修司の「家出のすすめ」に深く魅了されたこともある。小説家に憧れたのも、結局は煩わしい世俗の拘束から自由になれそうだと、ロマンティックな願望を勝手に投影していただけの話である。

 煎じ詰めれば、私は十代の頃から兎に角「幸福になりたい」と願い続け、畢竟「自由」さえ手に入れれば幸福になれるのだと無邪気に信じていた。だから大学も途中で放擲し、小説家になるんだと嘯いて、一端に「自由への道」を歩き出した積りでいた。そのまま行けば、私は毒にも薬にもならないフリーター稼業の末席を穢しながら、何れは路傍の亡骸となっていたかも知れない。幸か不幸か、なけなしの自由を獲得した途端に或る女性を妊娠させてとんとん拍子に結婚することとなり、それまでは「自由=幸福」の方程式を後生大事に拝んでいたのが、大慌てで「愛情=幸福」に宗旨替えする運びとなり、渋々ながら勤人となって社会の風波に揉まれることとなった。ところが「愛情=幸福」の教義が如何に難解であるかを知らずに良人となり父親となった私の人格的未熟は惨憺たる有様で、五年ほどで愛想を尽かされて離婚届を書いた。それから紆余曲折を経て、現在の妻と所帯を持ち子を成した訳であるが、その後も私の個人的な「幸福論」は危なっかしい迷走を続け、不道徳な関係を持って家族の信頼を著しく毀損する愚行にも走ってしまった。妻の寛大な愛情と驚嘆すべき忍耐力によって家庭内執行猶予の身分となった私は、現在は平凡な良人であり父親であり入社十五年目の勤人である。

 要するに私は何処にでもいて、幾らでも替えの利く凡百の愚者の一味であり、強いて趣味を挙げれば読書くらいのもので、そういう退屈な人間が今後の人生を見越して何か有益な「体系的読書」を試みるならば、それは先賢の遺した「幸福論の蒐集或いは検討」ということに尽きるだろうと勝手に結論した訳である。高校三年生以来、喫煙の習慣を欠かさない前近代的な私が長寿を全うする見込みは乏しく、他方、この二千数百年の間に人類の選良が生み出した「古典」の数は厖大である。つまり、世界に氾濫する無限の典籍を徹底的に厳選したとしても、それら総てを読破し、正しく適切な解釈を手に入れることは概ね不可能に等しいのである。だから、せめて自分自身の人生に対して有益な読書への「選択と集中」(聊か古いか)を心掛けたい。そういう経緯から此度こうして「サラダ坊主の幸福論」という記事のカテゴリーを新設することとした。余り気負っても中途で挫けるだけであるから、ゆったりと構えて地道に取り組みたいと思う。言い訳がましい前置きは以上である。