サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主の幸福論 3 エピクロス先生の静謐な御意見(二)

 今回は古代ギリシアの哲学者、エピクロス先生の幸福論の内実に就いて、より具体的な検討を進めていきたい。

 さて、わたしが君にたえず説き勧めてきたことを、それこそが美しく生きるための基本原理であると理解して、習いおこなうべきである。まず第一に、神についての共通な観念として人々の心に銘されているとおり、神は不死で至福な生者である、と信じ、神の不死性に縁遠いものや、至福性に不似合なものを神におしつけることなく、かえって、神の至福性と不死性とを保持することのできるものをことごとく、神のものと考うべきである。(『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 p.66)

 いきなり「神」という宗教的な単語が登場するので鼻白む方もおられるかも知れないが、この一節を通じてエピクロス先生が何か熱狂的な信仰の情熱や、俗人には模倣し難い清廉な戒律への忠誠を力強く唱導していると考える必要は存在しない。先生は要するに「神」という超越的な存在を擬人化するような古来の神話的思考を斥けようと試みているのである。それは直ちに先生の思想の裡に無神論的な性質を看取することを意味しない。先生は「神」の実在を素朴な仕方で承認すると共に、超越的な存在である神々は原則として、人間の世界や社会的生活の領域に容喙したり介入したりすることはないと強調している。

 そこで、多くの人々の信じている神々を否認する人が不敬虔なのではなく、かえって、多くの人々のいだいている臆見を神々におしつける人が不敬虔なのである。というのは、多くの人々が神々について主張するところは、先取観念ではなくて、偽りの想定であって、それによると、悪人には、最大の禍いが、いや(犠牲を捧げたりなどすれば)最大の利益さえもが、神々からふりかかるというのだからである。けだし、神々は、つねにかれら固有の徳に親しんでいるので、かれら自身と類似した人々を受けいれ、そうでないものはみな、縁遠いものと考える(そして遠ざける)のである。(『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 pp.66-67)

 エピクロス先生は神々に関する誤った認識を排除しようと努めている。宗教的で神話的な物語に呪縛され、制約されることは、正しい認識ではないと先生は看做しておられるのである。先生にとって「哲学の研究」が「霊魂の健康」の獲得と密接に結び付いていることを鑑みれば、こうした神々に関する議論は要するに、誤った考えに振り回されて動揺したり混乱したりする愚挙を免かれる為の説諭であると捉えることが出来る。超越的な神々は、地上を這い回る可死的な人間たちの問題には介入せず、専ら「至福」と「不死」という二つの崇高な「徳」の裡に安住している。言い換えれば、先生は「神」の存在を認めつつも、それを擬人化して殊更に恐懼したり崇拝したりする営為は無益であることに、我々凡夫の注意を促しているのである。

 また、死はわれわれにとって何ものでもない、と考えることに慣れるべきである。というのは、善いものと悪いものはすべて感覚に属するが、死は感覚の欠如だからである。それゆえ、死がわれわれにとって何ものでもないことを正しく認識すれば、その認識はこの可死的な生を、かえって楽しいものとしてくれるのである。というのは、その認識は、この生にたいし限りない時間を付け加えるのではなく、不死へのむなしい願いを取り除いてくれるからである。なぜなら、生のないところには何ら恐ろしいものがないことをほんとうに理解した人にとっては、生きることにも何ら恐ろしいものがないからである。(『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 p.67)

 「死」に関する考え方もまた、先述した「神」に関する考え方と類似した論理に基づいて披歴されている。「神」に対する盲目的な恐怖を払拭することと「死」に対する恐怖を否定することとの間には、思惟における方針の明確な照応が存在している。「死」は我々の感覚的経験の圏外に生起する事件であるから、それは決して意識における快苦の原因とはなり得ない。従って「死」を明瞭な「苦痛」であるかのように恐懼し、大袈裟に忌避するのは、不毛な謬見に盲従することに他ならない。同時に、そうした謬見は「不死へのむなしい願い」に囚われて齷齪と奔走する愚挙にも帰着し得る。人生が有限であることは、何ら実体的な損失を我々に齎さないにも拘らず、一般に人は「死」への恐怖に縛られ、決して報われることのない「不死へのむなしい願い」に衝き動かされて貴重な時間を浪費しているのである。言い換えれば、エピクロス先生は人類の歴史と同じくらい古く堅牢な形而上学的「迷信」を除去することが「霊魂の健康」の確保に資すると考えておられるのだ。

 それゆえに、死は恐ろしいと言い、死は、それが現に存するときわれわれを悩ますであろうからではなく、むしろ、やがて来るものとして今われわれを悩ましているがゆえに、恐ろしいのである、と言う人は、愚かである。なぜなら、現に存するとき煩わすことのないものは、予期されることによってわれわれを悩ますとしても、何の根拠もなしに悩ましているにすぎないからである。それゆえに、死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである、なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。(「メノイケウス宛の手紙」『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 p.67)

 そのように思い切ることが心情的な事実として容易であるかどうかは扨措き、エピクロス先生の極めて沈着で静謐な御意見は疑いなく傾聴に値するものである。先生は非常に単純明快な論理を用いて、人類の九割九分九厘が逃れられずに何千年も何万年も思い悩み続けている「死の恐怖」という古典的な不安に就いて、実に端的な性質の処方箋を提示しておられる。「死」が現前するときには、既に我々の感覚は滅び去って如何なる苦痛も感受し得ないのだから、殊更に「死」を最大の害悪として恐懼したり嫌悪したりする必要はないと言い切るエピクロス先生の見解は、理窟の上では頗る明瞭な正しさを示している。そうであるにも拘らず、我々の心情が先生の簡潔な訓誡に対して満腔の賛同を示すことに抵抗を感じるのは、そのような「迷信」が恐らくは我々人類の生物学的な本能に根差しているからだろう。生物が「死」に対する恐怖を懐いたり、本能的な忌避へ向かって衝き動かされたりするのは、それが生命の本質的な「保身」への欲望と不可分に結び付けられているからであり、人間の賢しらな理窟よりも遥かにプリミティブな機能であり衝迫である「死への恐怖」を、理智の命ずる方針に従って超克することは誰にでも為し得る簡便な業ではない。言い換えれば、この断じて容易であるとは評し難い稀有の道程を辿って、厳密な「真理」の命じる方角へ向かって進もうと不断に努力することこそ、エピクロス先生の信奉する「哲学の研究」の過程なのであり、その困難で崇高な奮闘の涯に漸く貴重な「霊魂の健康」は築かれるのである。このように考えるならば、少なくとも先生の信じる哲学的探究の究極的な効用が、単なる空疎な思弁とは根底において異質であることも直ちに頷けるだろう。「哲学」は単なる知的好奇心の極度に純化された様式に留まるものではなく、それは実に直截な仕方で我々の担う倫理的な課題の解決に寄与するものなのである。生物学的な「迷信」を是正する為に「理智」の適切な用法を学ぶこと、これこそエピクロス先生の掲げる「幸福論」の枢要を成す有益な教訓である。