サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主の幸福論 6 エピクロス先生の静謐な御意見(五)

 引き続き、古代ギリシアの賢者エピクロス先生の幸福論に就いて検討を行なう。

 快は第一の生まれながらの善であるがゆえに、まさにこのゆえに、われわれは、どんな快でもかまわずに選ぶのではなく、かえってしばしば、その快からもっと多くのいやなことがわれわれに結果するときには、多くの種類の快は、見送って顧みないのである、また、長時間にわたって苦しみを耐え忍ぶことによって、より大きな快がわれわれに結果するときには、多くの種類の苦しみも、快よりむしろまさっている、と考えるのである。そこで、どんな快も、われわれに親近な本性をもっているがゆえに、善であるが、しかも、どんな快でもかまわずに選ぶべきではない、それはちょうど、どんな苦しみも悪ではあるが、いつも本性上避けるべきものであるとはかぎらないのと同様である。とにかく、われわれは、それぞれを測り比べ、利益と損失を顧慮することによって、これらすべての快と苦しみを判別しなければならない。というのは、われわれは、或る場合には、善を悪として扱うし、反対にまた、悪を善として扱うこともあるからである。(「メノイケウス宛の手紙」『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 pp.70-71)

 こうした記述を仔細に読めば、エピクロス先生の倫理学的な知見を野放図で法外なヘドニズムと混同することが、如何に浅薄な誤解であるかということが鮮明に了解されるのではないかと思う。あらゆる種類の快楽を、それが伴う苦痛に満ちた副作用への懸念を愚かしく排除して、極めて貪婪で動物的な仕方で執念深く追い求める態度は、先生の幸福論が示している規範に微塵も合致しない。深刻な短慮と盲目的な意志の弱さに操られて、眼前に示された総ての享楽を軒並み味わい、平らげようとする獰猛な欲望の奴隷と化すことは、決して「霊魂の健康」即ち「アタラクシア」の幸福を我々に齎さない。寧ろ、常軌を逸した享楽への盲目的な隷従は、絶えず我々の精神に波乱を喚起し、片時も劇しい飢渇を忘れさせず、足許の欠乏を常に意識させて、幸福な自足と安住の境地から我々の生活を放逐するのである。

 快楽は常に欠乏の解消として経験される。厳密に言えば、快楽は欠乏が解消される過程において享受される心理的な経験であり、従って欠乏が完全に解消されてしまえば、必然的に快楽の時間も消滅する。「苦痛の欠如」を幸福の最大の条件と看做すエピクロス先生は、快楽そのものを重んじて熱烈に欲しているのではなく、苦痛と快楽の双方が消滅した境涯を、人間の望み得る至高の倫理学的理想として掲げているのである。他方、生粋のヘドニストは、快楽の再来を切実に希求する余り、自ら好んで「欠乏」という苦痛の状態を作り出そうと画策する。苦楽の終息した後の平穏な心理的状態を「幸福」と看做す先生の考え方とは対蹠的に、ヘドニストたちは旺盛な野心に駆られ、辿り着いた幸福を「倦怠」と結び付けて軽蔑し、自らの手で幸福な境涯を叩き壊して、激越な享楽が魂の裡に侵入する余地を意図的に捏造するのである。このような振舞いが、如何なる種類の安住にも閑暇にも帰結しないことは歴然としている。ヘドニズムが呼び覚ますのは決して癒やされることのない無限の飢渇であり、絶えざる自己否定であり、自分の置かれている現状との不機嫌で闘争的な訣別である。幸福が「他に何も要らない」と思えるほどの自足した状況を指しているのだと仮定するならば、ヘドニズムの境涯は正に幸福の対極に位置する実存の様態であると言えるだろう。

 極端なヘドニズムは、肉体と精神の双方に関して、常に享楽への絶対的な忠誠と盲従を確約している。従ってそこには動物的な衝迫だけが存在し、自制心や克己心といった伝統的な美徳は入念に根絶されている。彼らは理智的な統御によって快楽への異常な執着を抑え込もうとする通俗的な道徳に向かって叛旗を翻す。彼らにとっては強烈で限りない享楽こそが幸福の同義語であり、生存の理由であり動機なのだから、理智的な統制は不本意な障碍以上の積極的な価値を持たない。寧ろ無用の統制は排除されねばならないし、穏健で長期的な展望に基づいて眼前の享楽を節制するのは、一種の退嬰すら暗示しているのである。

 これに引き換え、エピクロス先生の構想する幸福論においては、殊更に欠乏を生み出してまで強烈な享楽の経験を幾度も再帰させようと試みることは、最大の悪徳に類する行為であると看做される。言い換えれば、先生にとって快楽そのものは、人生における積極的な目的であるとは考えられていないのである。重要なことは、欠乏や苦痛が解除されることであり、それによって平静な快楽、つまり如何なる欠乏も苦痛も感受されない無風の状態へ移行することが、先生の幸福論における至高の理想である。つまり、先生は苦痛と快楽の複合的な循環を排することによって、謂わば「涅槃」(nirvana)の如き境地へ到達することを志しておられるのである。厳密に用語の定義を試みるならば、苦痛からの解放の過程は「享楽」であり、他方、先生の論じる「快楽」とは苦痛からの解放の結果なのである。強烈で官能的な「享楽」が終焉するとき、人間の魂の海面には「快楽」という凪の状態が到来する。ヘドニストならば、こうした「快楽」の境涯を退屈と倦怠の名の下に憎悪し、切実に忌避するだろう。彼らにとって重要なのは「享楽」の生々しい実感であり、平穏無事の閑寂な「快楽」は余りに薄味で物足りないのである。極端な表現を用いるならば、ヘドニストが求めているのは充足ではなく飢渇であり、安住ではなく彷徨である。彼らは無限の幸福に堪えられず、現状の条件や制約に納得することが出来ない。飢渇が介在しなければ、彼らは享楽の昂奮を愉しむことが出来ない。それゆえに彼らの生活は、絶えざる飢渇への回帰と、劇しい享楽の到来の目紛しい交替、循環として形成される。それはまるで「輪廻」のように終局を知らぬ無限の過程である。享楽が「輪廻」であるならば、快楽は差し詰め「涅槃」であろう。