サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主の幸福論 8 エピクロス先生の静謐な御意見(七)

 引き続き、古代ギリシアの賢者エピクロス先生の幸福論に就いて検討を進める。生前から「享楽主義」(hedonism)の汚名を着せられ、著しい歴史的曲解に曝され続けてきた先生の倫理学的な知見が、実際にはヘドニズムの特徴である「絶えざる飢渇」への正統な処方箋を含んでいることに就いては、既にこれまでの記事を通じて論述を済ませた。その最も明瞭な論拠を引用しておきたいと思う。

 それゆえ、快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、――一部の人が、われわれの主張に無知であったり、賛同しなかったり、あるいは、誤解したりして考えているのとはちがって、――道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(平静である)こととにほかならない。けだし、快の生活を生み出すものは、つづけざまの飲酒や宴会騒ぎでもなければ、また、美少年や婦女子と遊びたわむれたり、魚肉その他、ぜいたくな食事が差し出すかぎりの美味美食を楽しむたぐいの享楽でもなく、かえって、素面の思考ネーポーン・ロギスモスが、つまり、一切の選択と忌避の原因を探し出し、霊魂を捉える極度の動揺の生じるもととなるさまざまな臆見を追い払うところの、素面の思考こそが、快の生活を生み出すのである。(「メノイケウス宛の手紙」『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 p.72)

 この一節は、エピクロス先生が自らに学説に対する不当な偏見や瑣末な誤解を明瞭に認識し、理路整然たる反駁を用意していたことを歴然と示唆している。肉体的な享楽の類に耽溺する堕落した暗愚な人々という曲解が、如何に事実を反映しない、歪曲された発想であるかということは、この文章を読めば直ちに諒解されるだろう。確かに先生は、例えばプラトンにおいて鮮明に表現された「霊肉二元論」の思想的構図に対して、反抗的な考え方の持ち主である(ルクレーティウスの「物の本質について」には、霊魂の不滅や霊肉二元論の構図を否認する思索の結晶が明確に象嵌されている)。けれども、それは先生が肉体的な享楽を何よりも重んじる人物であることを微塵も含意しない。寧ろ先生の思想は明白に、古代ギリシアの伝統的な特質である主知主義の系譜に連なっていると看做すべきである。肉体の要求する数多の享楽に耽溺することを戒め、専ら「素面の思考」によって謬見を排斥すべく努めることが、先生の提唱する幸福論の要諦である。欲望の放縦な解放は、ヘドニズムの特徴であってエピクロス学派の特徴ではない。

 ところで、これらすべての始源であり、しかも最大の善であるのは、思慮である。このゆえに、思慮は知恵の愛求(哲学)よりもなお尊いのである。思慮からこそ、残りの徳のすべては由来しているのであり、かつ、思慮は、思慮ぶかく美しく正しく生きることなしには快く生きることもできず、快く生きることなしには〈思慮ぶかく美しく正しく生きることもできない、〉と教えるのである。というのは、残りの徳はみな快く生きることと由来をともにしているのであり、快く生きることは、それらの徳から離すことができないからである。なぜなら、だれがつぎのような人よりすぐれていると、君は考えるか、すなわち、神々については敬虔な考えをもち、死についてはつねに恐怖をいだかず、自然的な目的(快)をすでに省察しており、善いことどもの限度(苦しみのないこと)は容易に達せられ容易に獲得されるものであるし、悪いことどもの限度は、時間的にも、痛みの点でも、わずかであるということを理解しており、また、一部の人が万物の女王として導き入れたところの〈運命(必然性)〉を嘲笑している人、このような人より以上にだれがすぐれていると、君は考えるか。(「メノイケウス宛の手紙」『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 pp.72-73)

 この一節には、主知主義的な幸福論の性質が明瞭に示されていると言える。「思慮」と「幸福」との間に密接な因果関係を見出す思想は、エピクロス先生のみならず、例えばプラトンの対話篇の裡にも看取することが出来る。先生にとって「哲学の研究」という営為は、聊かも無味乾燥な抽象的学問を意味しておらず、寧ろそれは我々の人生の質的向上に直接的な影響を及ぼすものと考えられているのである。言い換えれば、多くの人々が喘ぎながら陥っている多様な不幸の源泉は、思慮の欠如の裡に存すると看做すことが出来る。彼らは欲望や快楽の構造に就いて適切な省察を欠いている為に、無限の飢渇に苛まれ、精神の平静という最も重要な幸福の原理から見放されてしまっているのである。「哲学の研究」に従事し、事物の原理や性質に就いて正しい認識を獲得することは、享楽への耽溺という不幸な状況から人間の霊魂を救済する。享楽は、人間の精神を一所に安住させず、完結的な充足を嘆賞することも許さず、常に尻を鞭打って、絶えず次なる獲物へ飛び掛かろうとするように仕向ける。何故なら享楽は、欠乏が充足される過程の内部にしか存在せず、従って原理的に無限の持続を保つことが出来ないからである。享楽は必ず消滅し、心理的な涅槃へ達する。この涅槃が至高の価値を備えていることを知る者は、殊更に欲望の叱咤を尊重しようとは考えず、自己の外部に魅惑的な獲物を狩りに行こうとも企てない。しかし、涅槃を果てしない退屈の源泉として遇する動物的な人々は、自らの手で完結的な充足の状態を破壊し、好んで新たな欠乏を創出し、その飢渇を埋める為に齷齪と奔走する。享楽は終息を知らぬ地獄の循環へ人々の魂を監禁する。それをエピクロス先生は「不幸」と呼んでおられるのである。