サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主の幸福論 13 セネカ先生のストイシズム(五)

 引き続き、セネカ先生のストイックな幸福論に就いて探究を続ける。先生の幸福論は、古代ギリシア以来の伝統的な主知主義に根差し、自らの精神を生の支配者に任じて、外在的な事物に惑わされない堅牢な「自家発電」の境涯を形作ることに重きを置いている。あらゆる種類の欲望は、内なる飢渇を癒やす為に自己の外部へ果てしない貪婪な探索の旅路に赴くことを要求するが、先生の幸福論においては「少欲知足」の理念に基づいた節制が最大の権威を有し、無益な奔走を戒めている。

 われわれの言う善きものは、また別様にも定義できる。言い換えれば、同じ一つの概念は必ずしも同一の言葉を用いなくとも言い表せるということである。ちょうど、同じ一つの軍隊が、あるときは広く展開し、あるときは集合して密集隊形を作り、あるいはまた中央部を湾曲させて角形の陣形を作るときもあれば、前線を一直線に展開するときもあるが、どのような陣形をとろうとも、その戦闘能力は同じままで変わりがなく、同じ陣営の側に立って戦う意志もまた同じままで変わりがないのと同様に、最高善の定義も、ある場合には敷衍して広義に定義することもできるし、ある場合には限定して狭義に定義することもできる。したがって、「最高善とは、(永続的な)徳に喜びを見出し、偶然的なものを軽視する精神である」と言っても、あるいはまた「最高善とは、さまざまな事象に精通し、行動するに冷静沈着、かつ深い人間性と、交わる人々への気遣いとをともなった不屈の精神力である」と言っても、同じことであろう。また、こう定義してもよい、われわれの言う幸福な人とは、その人にとって善きものと悪しきものが、善き精神と悪しき精神以外にない人であり、立派で名誉あるものを信奉し、徳で満ち足り、偶然的なものによって有頂天になることも意気沮喪することもなく、みずからがみずからに与えうる善きもの以上に大きな善を知らず、その人にとっての真の快楽が快楽を蔑視することである人だ、と。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 pp.140-141)

  生得的な本能の優位、それは避け難い情動や欲望や運命といった要素に支配される事態を意味するが、セネカ先生の幸福論は、専らそうした要素への抵抗を議論及び実践の主眼に据えている。情動も欲望も運命も共に、我々の主体的な意向とは無関係に生起し、不安定且つ偶発的に出現して、我々の精神に深甚な影響を及ぼす。このような自然的事象に支配されたり制約されたりする従属的な立場を脱して、自己自身に対する揺るぎない主権を確立することが「最高善」という言葉の本義である。例えば露骨で貪婪な享楽主義は、主として肉体的な感官を通じて齎される快楽の経験に固執し、その有無こそが人生の幸福を決する重要な問題であると考えている。こうした立場は、セネカ先生の議論に立脚する限り、明らかに隷属的で非主体的な生き方に他ならず、正に「偶然的なもの」に自己の生の基盤を預ける不安定で脆弱な実存的態度であると言い得る。「快楽を蔑視すること」が「真の快楽」であると看做されるのは、それが他律的な事象への隷属を排する立場を意味しているからである。但し、厳密には「快楽」そのものが悪しきものだと難じられているのではなく、飽く迄も偶然的で相対的なものであるに過ぎない「快楽」の裡に生の根拠を見出すことが問題視されていることに我々は注意を払わねばならない。重要なのは「自己支配」であり、他律的なものに依存して、自己の幸福の源泉を自己の外部に放逐する過ちを犯さないことである。他者から授かり得るものは一時的な享楽の経験に限られており、しかも他者の側は、自己に対して絶えず享楽を供給する理由も責務も負っていない。他者は自己の幸福の為に存在しているのではなく、銘々の幸福の為に、銘々が個人的な努力を積み重ねているのである。従って、他律的なものに自己の幸福の根拠を求めようとする態度は、他者の存在を自己の幸福の為に使役し、腕尽くで奉仕させる悪徳へ直結しかねない。多くの依存的な恋愛が、幸福の相互的な収奪として悲惨な結果を招くのも、こうした背景に基づいている。その意味で先生が書き記した「みずからがみずからに与えうる善きもの以上に大きな善を知らず」という一節は、重要な意義を備えている。己の幸福を生み出せるのは唯一、自分自身の精神と言行に限られている。己の悲惨な不幸に苛まれる余り、狭量な他責に走るのも、特定の人や物に己の幸福の根拠を全面的に委任するのも、等しく同質の病弊から派生した残念な結果である。何かを獲得したり所有したりすることによって、自己の幸福が確立される訳ではない。幸福とは一つの主観的で内在的な状況であり、その構築は他律的な原因によって左右されるものではない。絶えず他人の非を咎め、その愚昧と悪徳を論い、それゆえに自分は非常に不快な心境へ陥れられたと声高に言い張る総ての人々は、自分の不機嫌の根拠を無条件に他人の言動と結び付けている点において、幸福から最も遠く疎隔された種族であると結論することが出来る。彼らは自らの本来的な幸福が他律的な要因によって阻害されていると考え、尽きせぬ不満を営々と陳述し続ける。しかし、自己の幸福を形成するのは専ら自身の精神の働きであり、制御し得ないものに振り回されて禍福の境界を往還し続ける己の度し難い従属的な性質を恥じないのは、暗愚な人間であることの明瞭な証左に他ならない。こういう人間にとっては、如何なる資産も栄誉も悉く不幸の種子となり得るし、その貪婪な欲望が不快な飢渇を脱する見込みも限りなく乏しい。他者に依存せず、他者を問責せず、専ら自己の選択と忌避の基準に従って生活を設計し、過大な期待も深刻な煩悶も懐かずに精神の平静を保つこと、これがセネカ先生の勧める幸福論の要旨である。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫