サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主の幸福論 15 セネカ先生のストイシズム(七)

 引き続き、古代ローマの賢者セネカ先生のストイックな幸福論に就いて私的な評釈を進める。

 ある種の自由さをもって論じ始めたのだから、こうも言えよう、幸福な人とは、欲望も覚えず、恐れも抱かない人であるが、ただし理性の恩恵によってそうであるような人である、と。なぜなら、木石にも恐れや悲しみの感情はなく、家畜もまた同様だからである。だからといって、幸福が何であるかの理解が欠如しているものを幸福なものとは誰も呼ばないであろう。愚鈍になった本性と、己に対する無知のせいで家畜や獣の部類に身を落とした者たちは、そうした木石禽獣と同類とみなすべきなのである。そのような人間と木石禽獣のあいだには何の相違もない。なぜなら、木石禽獣には理性というものがいっさいなく、そのような人間にあるのは、己の災いを招く、邪悪さに長けた歪んだ理性だからである。実際、真理の埒外に放り出された人間は誰一人幸福な人とは呼べない。したがって、幸福な生とは、正しく確かな判断の上に築かれた、安定的で不変の生のことなのである。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 p.143)

 セネカ先生は、人間の尊厳、或いはその本質的な特徴を「理性」の裡に見出しておられる。この鮮明に主知主義的な公理は、セネカ先生のみならず、古代ギリシアの時代から連綿と続く幸福論の伝統に絶えず伏流している基礎的な考え方であると言える。正しい理性を欠いた者は「人間」の眷属に値しないという苛烈な断定は、人間としての幸福が、人間の根源的な特質である「理性」の発達の過程を通じて達成されるという方針から析出された宣言である。理性の未熟な人間は、欲望や情動に操られて、偶発的な要因に服従し、瞬く間に貴重な生の時間を空費してしまう。理性の発達を通じて、あらゆる欲望や情動を支配する主体的な権威を完成させた人間だけが、本物の人間的な幸福という美しい果実を賞味することが出来るのである。一時的な感情に流されたり、旺盛な欲望の指図に唯々諾々と従ったりすることは、愚昧な不幸の呼び水に他ならない。だから、自らの欲望が悉く満たされないとか、不快な感情の捌け口が見出せないとか、そういった理由で眼前の生活に不満を溜め込み、懊悩の内圧を無際限に高めている人々は、そもそも幸福に関する認識の前提が誤っているのである。彼らは欲望や情動から発せられた強迫的な指令を実現することの出来ない境遇に対して、不幸という観念を読み取り、自分の望む幸福が眼前の不本意な現実によって阻害されているという論理に基づいて行動している。けれども、本当は欲望や情動の指令を疑わずに鵜呑みにしているという事実から、根源的な不幸の種子が胚胎しているのである。欲望の指示を実現出来ないことが不幸であるという考え方は必然的に、欲望を充足する為ならば手段を択ばない、多少の悪事も止むを得ない、他人の資産や感情を損なっても差し支えない、というエゴイズムを増殖させる。しかも、欲望の指示には終焉というものが存在せず、一つの欲望が実現されたとしても、直ぐに新たな指示が下され、エゴイズムの暴騰には歯止めが利かなくなる。彼らは常に不満を懐き、その解消の方途に就いて考え、場合によっては他人を傷つけたり法令に抵触したりすることも辞さずに、自らの欲望の充足を優先するのだ。

 けれども我々が本来、最も真摯に究明しなければならない問題は、欲望を達成する手段を開発することではなく、欲望による支配や制約から自己を釈放する方法を実践することである。矢継ぎ早に繰り出される衝動的な指示に忠誠を誓えないことが不幸の原因であると言うよりも、忠誠を誓うべきだと信じ込んでいることが総ての禍いの元凶なのである。我々は欲望や情動の奴隷として振舞うことによって「木石禽獣」の同類と化すべきではなく、また欲望や情動の充足によって無限の安定的な幸福へ到達し得る生き物でもない。我々自身が理性の助けを借りて、欲望や情動を折伏し、統制し、隷属させねばならない。無論、欲望や情動そのものが罪障であると大袈裟な口調で言い立て、過剰な廉潔を信奉しようと企てることを勧めているのではない。欲望や情動は、我々の肉体に内在する生得的な機能であるから、それ自体の善悪に就いては「無記」の原則を堅持すべきである。懸念すべき問題は、それらに自己の主権を掌握されることであり、理性よりも欲望や情動が強大な権威を発揮するような生き方に囚われることである。

 そのとき、精神は清澄であり、(外部からの)手ひどい打撃はもとより、些細な一撃さえも寄せつけない境地にあるために、あらゆる害悪から解放されており、たとえ運命が怒り狂い、攻撃を仕掛けてこようとも、一度立ったその境地に常に立ち続け、その境地を守り抜く決意を固めている。実際、快楽に関して言えば、たとえそれが四方至る所を包囲し、あらゆる通路を通って侵入し、その甘い囁きで精神を懐柔して、われわれ人間存在の全体を、あるいは、その一部を攪乱する手段を次から次へと繰り出してこようとも、いやしくも人間の痕跡をとどめている者なら、誰が昼も夜も快楽にくすぐられ続けていたいなどと思い、精神を放擲して四六時中肉体だけに精力を注ぎ続けていたいなどと思うであろう。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 pp.143-144)

 先生の考えでは、欲望や情動よりも理性を択ぶ態度こそ、人間が人間であることの揺るぎない証明である。そのような立場を一層堅牢なものに鍛え上げていく過程こそ、人間的成長の理想的な姿であり、その道を逸脱しながら猶も安定的な幸福を手に入れることは不可能であると言わざるを得ない。快楽に心を奪われ、肉体の要求に盲従する生き方を脱すること、その為に理性の導きを何よりも重んじ、精確で適切な判断を積み重ねることに意を注ぐ方針こそ、人間的幸福の唯一の土台なのである。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫