サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主の幸福論 17 セネカ先生のストイシズム(九)

 引き続き、古代ローマの賢者セネカ先生の幸福論に就いて個人的な探究を進める。先生は「幸福な生について」と題された書簡形式の文章において、エピクロス派の門徒たちが開祖の教義に反して(不当な曲解に基づいて)「快楽」を人生における「最高善」と看做していることに就いて、苛烈な筆致で指弾を加えておられる。

 似ても似つかぬもの、いや、それどころか正反対のものを、なぜ一緒くたにしようとするのか。徳は高いもの、屹立して王者のごときもの、敗北を知らず、潑刺として疲れを知らぬものである。快楽は低俗で奴隷のごときもの、脆弱で必滅のものであり、娼家や料亭をその居所、その住処とするものである。徳に出会いたければ、神殿へ行くがよい。中央広場フォルムや議事堂へ行くがよい、城壁を守って立ち、埃にまみれ、陽に焼け、手にはまめをつけた姿を見出すだろう。一方、快楽はといえば、とかく人目を避けて闇を求め、浴場や発汗風呂、造営官を恐れる場所あたりを徘徊し、軟弱にして惰弱で、酒と香油に浸り、顔は青白いか化粧をし、薬用香油を塗られた死人のような姿をさらしているはずだ。最高善は不滅であり、出て行くことを知らず、倦怠することも後悔することもない。なぜなら、正しくまっすぐな精神は不易であり、自己嫌悪に陥ることがなく、最善のものであるゆえに、何一つ変えるところのないものだからである。しかるに、快楽は喜悦の絶頂に達した瞬間に消滅するものであり、それほど広い場所をとらず、それゆえ、すぐに満たし、すぐに倦怠を覚えさせ、はじめの勢いが過ぎれば、すぐに萎えしぼんでしまうものなのである。およそその本性が生々流転の動きにあるものは、確固としたものであることは決してない。したがって、また、みずからの作用を発現しているまさにその瞬間に滅ぶべく、たちまち来りては、たちまち過ぎ行くものには何らの実体もありえない、ということになる。そのようなものは、みずからが終焉を迎える目的地に向かってひたすら突き進み、生成の始まりと同時に存在の終わりに臨むものだからである。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 pp.146-147)

 エピクロス先生の盛名に寄生して、自らの享楽的な悪徳を糊塗し、強弁によって正当化を企てる厭わしい人々は、快楽を人生の目的であると看做して憚らないが、それは明らかにエピクロス先生の倫理学的な見識に反する邪悪な考えである。エピクロス先生が重んじたのは肉体的で感覚的な享楽ではなく、貪婪な欲望への屈従でもなく、専ら「肉体の健康」と「精神の平静」の二つの美徳が厳格に保持されることであった。その意味で、エピクロス先生の考えは、セネカ先生の「徳」に関する議論と完全に符節を合している。二人の偉大な老師は共に「享楽」の悲惨な実相に就いて沈着な省察を有し、そのような浮沈の激しい代物に依存して自らの生を設計することの愚かしさを慎重に排撃しておられるのである。

 享楽的な欲望に隷従して、絶えず獲物を探し求め、片時も己の現状に満足せず、卑しい飢渇を隠そうともしない悪しきエピキュリアンの振舞いは、理智の権威によって欲望を節制し、手許に現存するものの価値を精確に判定する賢者の言行の対極に存在している。賢者は快楽を節制し、その無軌道な飢渇を排除し、現存するものだけで満たされるように自らの心身を調教する。しかし悪しき享楽主義者たちは、現存するものの価値を測ることを疎かにして、絶えず自分の手許に存在しないものに誘惑され、束の間の喜悦を次々と飛び回り、常に強欲な涎を滴らせている。彼らは決して満足せず、揺るぎない幸福の裡に安らぐこともない。彼ら自身の振舞いが、幸福というものの原理を根底から裏切っているのである。幸福は不滅だが、快楽は必滅である。幸福は常に現存するものだけで自足するので、現存するものの総量が減少したり、その品質が劣化したりしても、その不本意他律的な変容を決して嘆いたり怨んだりしない。それゆえに幸福な人間は、外界の出来事に煩わされて悲嘆の淵に沈むような状況を免かれているのである。悲惨な出来事に遭遇しても、彼らの幸福そのものは決して衰滅せず、ただその構造と組成を革めるだけである。彼らは運命を恐懼せず、従って望外の幸運に憧れることもない。しかし快楽は、常に外界の状況に依存し、絶えず自己の外部から何らかの報酬を獲得することに汲々としている。何故なら快楽は必ず刹那的に過ぎ去り、常に新たな補給が行われることを必要としているからだ。けれども、その補給が必ず成功に導かれる保証は存在せず、多くの法外な欲望が実際には、酷薄な現実の命運に直面して挫かれ得るものであることは誰でも弁えている。快楽が充足へ至るのは幸運の賜物に他ならず、それゆえ、快楽を愛する人間は絶えず悲惨な不幸と隣接しながら生きることを強いられるのである。快楽は必ず消え去り、衰滅する。快楽の補給が途絶えれば、ヘドニズムの信徒たちは底知れぬ不幸の深みへ頽落せざるを得ない。

 如何なる事態に遭遇しても変わらぬ幸福を堅持する為には、欲望や情動を克服し、理智の支配下に置く必要がある。理智の錬磨に精励することは、無用の動揺や混乱、無益な飢渇や苦悩を折伏する結果に繋がる。言い換えれば、幸福とは自己の外部に何かを求めて彷徨する無限の冒険が齎す貴重な果実を意味するのではなく、研ぎ澄まされた理智の力を通じて、自己に備わったものの価値を発見し、正しく認識することによって得られる凡庸な果実なのである。現存するものの価値を発見する、これが幸福への唯一の捷径だ。それは飢渇の終息を齎し、矢継ぎ早の探求によって新たな快楽を捕えようとする卑しい生活の終焉を惹起する。現存するものよりも現存しないものを常に珍重する冒険家たちの生は、劇しい歓喜と堪え難い苦悩との合金であり、そこから喜悦だけを選択的に抽出することは不可能である。彼らは大抵の場合、不機嫌な表情で日々を過ごし、時折の僥倖だけが晴れやかな笑みを授けるが、その好ましい影響は長続きしない。幸福な人間は、如何なる状況に置かれても絶えず明朗で、穏やかである。何れが望ましく美しい生き方であるかは、判然としているのではないだろうか。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫