サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主の幸福論 18 セネカ先生のストイシズム(十)

 引き続き、古代ローマの賢者セネカ先生の幸福論に就いて私的な評釈を試みる。

 さらに、善きものと同様に、悪しきものにも快楽が内在し、有徳の人が優れたものに喜びを覚えるのと同様に、恥ずべき人間も自分が耽る不道徳なものに喜びを覚えるという事実もある。だからこそ、古人は、最も快い生ではなく、最も善き生を追い求めよと説き、快楽を正しく善き意志の先達とするのではなく同伴者とせよ、と教えたのである。いかにも、われわれが先達とすべきは自然だからであり、理性が尊ぶのはこの自然であり、理性が助言を求めるのはこの自然だからである。したがって、幸福に生きることと自然に従って生きることは同じことなのである。その意味するところを今、説き明かそう。もしわれわれが自然の与えた肉体の資質と、自然に適ったものとを、あたかもそれが一日だけ与えられたもので、やがては去り行くものであるかのごとくみなしつつ、注意深く、かつまた怯えることなく守り通すならば、そして、もしわれわれがそうしたものに隷属しもせず、自分のものではないものにわれわれの所有者になることを許しもしなければ、そして、もしわれわれが肉体にとって喜ばしい外的なものを、陣営での援軍や軽装部隊――それは服従すべきものであって命令すべきものではない――と同じものと位置づけるならば、そのとき初めてそれらは精神にとって有益なものとなるのである。人は外的なものに毀損されず、征服されない人間でなければならない。自己のみを賛美する人間でなければならない。また、

 

  精神を恃み、禍福いずれにも心構えて

 

いなければならず、生の創造者でなければならない。その自信には知識の裏づけがなくてはならず、その知識には恒心の裏づけがなくてはならない。一度決めた信条はあくまで守り抜き、いったん下した決断はいささかも翻してはならない。付言するまでもなく、そのような人は泰然自若とし、冷静沈着で、その言動には堂々とした威風の中にも親愛の情をただよわせた人であろうことは了解されるであろう。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 pp.148-149)

 セネカ先生は「享楽」の背徳的で有害な性質に就いて幾度も熱弁を揮っているが、それは「享楽」の経験そのものを完全に排除すべきだと断じている為ではない。先生が最も危惧し、懸念しておられるのは、人間の心身を統制する最も重要な基準に「享楽」が登録され、理性も肉体も挙げて「享楽」の獲得と賞味に精励するような事態の現出であり、言い換えれば「享楽」に人間の生命の主権を委任することなのである。先生は徹底的な「自立」の重要性を繰り返し訴え、自己の外部に存在するものに依拠して生涯を設計することの愚かしさを口煩いほどに強調しておられる。「享楽」は「善きもの」の裡にも「悪しきもの」の裡にも等しく内在しており、それ自体の価値に就いては「無記」と看做す以外に途はない。従って「享楽」の有無を人生の羅針盤として用いるのは、背徳的な喜悦に溺れて破滅への道を突き進む懸念を排除し得ない生き方であり、偶発的なものに依存して先行きの不透明な生活、即ち刹那的な生活に明け暮れることを意味する。セネカ先生が既に、予め「幸福」という理念に関する正しい理解を持ち、偶発的な事件に左右されることなく、理性の先導に従って適切な道程を選択することが望ましい生き方であると、この「幸福な生について」という文章の劈頭において述べておられることを想起して頂きたい。事前の計画を持たず、偶然の果報に惑わされて、その場凌ぎの軽率な判断ばかりを積み重ねるのは、先生の考えでは最も「幸福」から遠く隔たった生き方に他ならないのである。

 セネカ先生の幸福論は「主体性」の理念に深々と依拠している。理性以外のものに依拠せず、情動や欲望に隷属せず、自己の外部に生の根拠を求めず、専ら自己の判断を重んじて、主体的な位置に立脚し続けること、煎じ詰めればこうした心構えが先生の論じる「幸福」の本質的な源泉なのである。尤も、このような生の作法が、誰にとっても実現の容易な振舞いであると考えるのは聊か楽観的に過ぎるだろう。肉体に根差した欲望や情動の働きを悉く理性的な統御の下に屈服させることは、途方もない難事業である。また、こうした「自力作善」の考え方は自ずからエリーティズムの発想に帰着し、自らの欲望や情動を抑制し得ない惰弱な人間を冷眼視する酷薄な態度を涵養しかねない。現代の日本社会に蔓延する「自己責任論」の残忍な弊害をも想起させる、セネカ先生の「主体性」に関する議論は、暗黙裡に「強者の論理」を含有しているのではないかと思われる。無論、セネカ先生の提示する理想的な人間の姿は美しいものであり、自らの欲望や情動を理性的要請に従って随意に統制し得る強靭な意志の持ち主が、外界の出来事に妨げられることなく、主体的な計画に基づいて将来を決定していくという筋書きは、紛れもなく崇高な物語であるに違いない。けれども、こうした「強者の論理」が万人に妥当し、万人に適用し得ると言い切れるだろうか。限られた選良だけがその実現を望み得る「幸福論」に、相対的弱者の側から「偏狭」や「傲慢」といった誹謗が寄せられるのは避け難い成り行きではなかろうか。賢明、冷静、恒心といった主知主義的な美徳は確かに篤い憧憬に値するが、それを手に入れようと望んで遂に果たさない惰弱な人々は、必然的に如何なる「幸福」も断念せねばならないのだろうか。

 私がセネカ先生の「幸福論」に対して感じる部分的な違和感、つまり全面的な賛同を留保する所以は、先生の議論が優れた強者のみに通用する高踏的な性質を踏まえていること、従って「自力作善」の美徳を貫き得ない多数派の弱者に対して「救済」を齎す契機を欠いているのではないかという懐疑に基づいている。世間の吹聴する諸々の誹謗中傷にも、他者の弄する無責任な甘言にも一切揺さ振られず、自己の信条のみに依拠して生涯を全うし得る強者にとって、セネカ先生の幸福論は不朽の「真理」を摘示するものであり、満腔の賛意に値するだろう。しかし、優れた人間しか幸福の果実に与れないのであれば、先生の提唱する幸福論は所期の目的を果たさず、寧ろ社会的な分断を齎す原因となりかねない。先生の議論を拝聴する限り、他者の幸福、隣人の幸福は必ずしも考慮されていないように思われるのも、懸念すべき分断を促進する悪しき材料となる。主知主義的な幸福論は、理性の貧しい人間の幸福を軽視し、不幸と愚昧とを同一視する傾向が強い。この問題を黙殺して、自己の幸福の完成のみを追求するのは恐らく、倫理に反する振舞いであると言えるだろう。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫