サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「逸脱」の倫理 三島由紀夫「偉大な姉妹」 1

 三島由紀夫の短篇小説「偉大な姉妹」(『ラディゲの死』新潮文庫)に就いて書く。

 この作品が、三島の遺した夥しい短篇の群れの中で、如何なる芸術的序列を賦与されているのか、如何なる世評が過去に試みられてきたのか、私は知らない。ただ自分の私的な感想を書き留めることが出来るだけである。結論から言えば、この「偉大な姉妹」という聊か滑稽な表題の短篇は、三島の文業において重要な地位を占める作品の一つであるように思われる。それは単なる技術的な巧拙の見地から発せられた鑑定結果ではない。この作品には、三島由紀夫という作家の個性が明瞭に刻印され、彼の宿命的な主題、逃れ難い性向が極めて濃密に浸潤している。それゆえに「偉大な姉妹」は独自の精彩を放っているのである。

 槇子と浅子の姉妹は、没落した名家の裔であり、その心情は大仰なアナクロニズムに隅々まで浸かっている。過去に富貴と栄華を極めながら、世相の変転に強いられて没落した人間が、眼前の現実から遊離した頑迷で反時代的な郷愁を患うのは地上の通弊である。新時代の要請する様々な規範や常識が、二度と還らない偉大な文化への暗愚な冒瀆のように感じられるのも詮方ないことである。

 ここに集まっているのは、要するに貧乏した「偉大」の群なのである。唐沢一族は、金力ではなく智力で偉大になった。唐沢将軍は二人扶持の侍の息子である。その息子や甥は、官界財界に一応の名を成した。一族は「偉大」の微細画ミニアチュアを描き上げた。それから一せいに顚落したのである。(「偉大な姉妹」『ラディゲの死』新潮文庫 p.202)

 「偉大」という言葉或いは観念は、この作品の全篇を貫く風変わりで抽象的な主題である。過ぎ去った時代の栄光との断層が、唐沢一族の精神を今も強力に捕縛し続けている。彼らは昔日の栄華を忘れられず、現代の世相に適合することへの狷介な拒絶を懐刀のように忍ばせて暮らしている。尤も、この作品における主役は没落した男たちではなく、彼らの「いたいけな諦念の気質」を歯痒く忌まわしく感じている女たちである。特に浅子は、時代に迎合する人々への批判的な視線を堅持し、叛逆的な精神の持ち主に無条件の高評価を与えている。

 浅子の孫の興造は十七歳である。三人の孫のうち、浅子はもっとも興造に望みを嘱している。小柄で敏捷で反抗心にあふれたこの少年は、唐沢家に共通した堅実な勉強家のタイプを逸脱していた。言い落してはならない美点がもう一つある。ほかの馴れ馴れしい孫とちがって、興造は浅子に小遣をねだったことがなかったのである。興造はいつも浅子に辛く当ったが、このほうは物質的損害ではない。(「偉大な姉妹」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.204-205)

 唐沢家の男たちは「堅実な勉強家」であるがゆえに「もうすこしのところで偉大を諦らめた」人々である。それが福永家から嫁した唐沢秀子の血を受け継ぐ女たちにとっては物足りなく、切歯扼腕の原因となっている。物語の劈頭における法要の場面は、没落した男たちの不甲斐ない姿を意地悪く活写する為に設けられていると看做して差し支えない。尚且つ、順繰りに登場し、審らかに描き出される老齢の男たちの衰亡は、冒瀆的な焼香によって法要の秩序を叩き壊した叛逆的な少年の特異な魂の形を際立たせる伏線の役目も兼ねているのである。

 興造の母の勝子が吊り上った目つきで立上った。興造は自分の席へ駈け戻ると、鞄をかかえ込んで庫裡に通ずる廊下へ逃げた。親戚縁者に気を兼ねた母は追うことができない。一座は騒然とし、咳払いが一層はげしくなった。ひとり浅子は、蹠の痛みも忘れて、感に堪えた面持で槇子にこう言った。

「やっぱり興ちゃんは皆とちがったところがある。きっとあの子は偉くなりますね、おあねえさま」(「偉大な姉妹」『ラディゲの死』新潮文庫 p.211)

 浅子が興造に深く思い入れるのは、彼の粗野な叛逆的気質が、現代の世相に対する抵抗と重なり合って見える為だろう。或いは、唐沢家の男たちが優秀な智力に恵まれながらも遂に「堅実な勉強家」の限界を突破し得ずに「偉大」の水準へ登攀する夢想を断念せざるを得なかったことへの不満足が、盲目的な期待を乱暴な孫に対して懐かせているのかも知れない。生意気で侮蔑的な興造の態度に始終苛まれながらも、浅子はその過剰な期待と嘱望を決して手放そうとはしない。他方、同じ孫でありながらも、興造とは違って秀才で常識を弁えた「堅実な勉強家」の典型である源造に対しては、彼女は冷淡な軽蔑を寄せている。体制に順応し、世間の道徳に素直に従い、叛逆や冒険とは無縁の人生を望む種族に対して、浅子は揺るぎない不信と根深い嫌悪を滾らせているのである。

 この世には自分の形を忘れることのできる人とできない人との二つの種族がある。浅子はおそらく前者に属していた。いつも偉大を夢みている浅子は、自分の偉大な体軀を忘れていた。ところが良造と勝子はちがう。彼らは仕立屋へ行って自分の寸法を訊かれて、忘れたと答えるようなへまは決してやらない。彼らは情熱を、想像力を、滑稽なことに理性をさえも、自分の寸法で大いそぎで裁ってしまう。彼らの賢明さは、賢明さが彼ら自身の愚昧にまで係わることをゆるさない。浅子の想像力の筋肉が不随意筋であるとすれば、彼らのそれは随意筋である。終点まで来れば必ず停る電車のような理性、平気で人を轢くことのできる理性、轢かれる人間に越度があると言い張れる有能な機械の理性は彼らのものである。

 興造は自分の形を弁えていない。これが彼に対する両親の非難の主たる根拠である。しかしこの悪戯小僧がどちらの種族に属しているかを誰が知ろう。(「偉大な姉妹」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.212-213)

 作者はこの一節を通じて「偉大」という観念の内的な規定に就いて懇切な註釈を試みているように見える。恐らく作者の定義では「偉大な人間」とは「自己の分際」を弁えず、半ば無意識的な衝迫に駆り立てられて「節度」や「身分」や「品位」を飛び越えてしまう種族を指しているのである。「自分の寸法」を精確に認識し、絶えず間尺に合わない言行は抑制し、余分なことは考えず、無益な妄想に時を費やすこともしない種族は、堅実で幸福な生涯に恵まれるが、斬新で画期的な発明や、前人未到の業績には無縁のまま死んでいく。彼らは「自分の寸法」に相応しくない無謀な高望みには断じて食指を動かさず、そのような禁慾こそ「幸福」の要諦であると固く信じて疑わない。彼らは堅牢な「節度」に取り巻かれた肉体を呪ったり悔やんだりしない。だが「偉大な人間」或いは「偉大を愛する種族」は、堅実な人々の臆病で周到な振舞いを嘲るだろう。同様に堅実な人々も、自己の分際を弁えずに突拍子もない愚行や狂気へ傾斜する「偉大」の信者たちを軽侮している。彼らは相互に分かり合えず、両者の実存的な性向は決して重なり合わない。堅実な人々は、得体の知れない他人の内実への想像力を欠き、常識から逸脱した感情や欲望は総て黙殺し、自己の視野から捨象してしまう。それゆえに彼らは優秀な人間であると看做されるのである。彼らは誤作動を起こさない「有能な機械の理性」の持ち主であり、断じて自己の領分を離れず、奇矯な失敗や過誤には手を染めない。矮小で卑俗な「日常」を嫌悪し、破滅的で悲劇的な栄光に照らされた「英雄」に憧れた三島が、何れの種族に偏愛を寄せていたかは明瞭であるように思われる。

 入歯のない歯茎でいつまでも物を嚙んでいるように、年寄の午後は無限に永い時間を咀嚼しているようなものである。午後のあいだ、年寄は自分が存在していないことを知っている。彼女は時間に化けてしまっているのだ。彼女は正確に生きている。つまり時間を追い越したり、時間を追いかけたりせずに、完全に時間と雁行している。

 浅子はこの隠居部屋を座敷牢とよんでいた。時間が彼女をとじこめているとは知らずに、彼女を囚人扱いにしている或る見えない悪意を想像することが浅子の生甲斐であった。もし想像どおりの悪意がこの世に存在したら、浅子の矜りはどんなにか満足したかしれない。しかし本当のところ浅子を相手にするような悪意はどこにもなく、その恰好な悪意の見当らぬことが彼女の猜疑を深めたのである。(「偉大な姉妹」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.214-215)

 「見えない悪意を想像する」という奇矯な悪趣味が、浅子の「偉大」に類する性質を示唆していることは明らかである。馬鹿げた陰謀論的な思考を彼女に強いているものは、平たく言えば「誇大妄想」に過ぎないだろうが、そもそも「偉大な種族」は、そのような思考が誇大であることを決して理解せず、承服もしないのである。彼らは「自分の寸法」を弁えないことに倫理的な力点を据えている。自己を客観視する堅実な聡明さ、決して自己の分際に応じた規矩を踏み外そうとはしない小心な美徳は、特権的な「偉大」を愛する人々の関心の圏外に置かれている。抑制の外れた奔放な想像力、自動的に噴出する強烈な情熱的妄想は、堅実な理性の働きを吹き飛ばし、尊大な叛逆や無謀な蛮勇へ彼らの生活を導き入れる。そうした傾向の集約された象徴的人物として、浅子は不遜な興造を厚遇しているのである。

 この少年のせり出した額、暗い無表情な目、顔と同じ方角を向いている脅かされた鹿の耳のようなその耳、……しかも耳の中は垢でいっぱい、目にはともすると終日目やにがついている。こうしたもののなかに浅子は、或る新鮮な精力的な嫌悪、少年期の男が自分の肉体に対してもつ嫌悪の外へのあらわれに他ならぬあの滲み出るような嫌悪、そういう嫌悪にそそのかされている徒らに反抗的な魂を見たのである。(「偉大な姉妹」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.216-217)

 興造の反抗的で尊大な姿勢は、謂わば精確な「自分の寸法」を把握し得ずにいる思春期の不安定な少年の特質であると言える。興造は兄のように適切で堅実な自意識を持たず、自己の明瞭な輪郭を想い描いて安住することも出来ない。彼は自己の不安定な性質、一般的な秩序の裡に適切な仕方で位置付けることの出来ない肥大した自己の状態を持て余し、それゆえの遣り場のない不安や憤激を外界へ向けて無造作に投射している。これは興造が賢明な人間ではないことの紛れもない傍証であるが、同時にその不安定な自己の性質こそ、彼を「偉大」という理想化された観念へ接続する貴重な根拠として作用しているのである。

 浅子の生れた明治十年代、これはほぼ反抗が実を結び、野望が収穫にとりかかった時代である。あの時代には、とにもかくにも、あらゆる類いの精力が効用をもっていた。立身や、金儲けや、享楽や、暗殺や、選挙や、戦争や、あらゆるものに精力が等分され配分された。明治二十年、東京電燈会社がはじめて電気燈を点火し、保安条例が公布されたこの年に浅子のいわゆる「偉大」が確立したのである。

 新しい秩序が漸く固まり、なお多くの修正が正しいものと見做されたあの時代には、戦争も、暗殺も、立身出世も、あらゆるものが正義であった。青年は世界を夢みた。子供が早く大人になって深夜までつづく宴会に出ることを夢みるように。たしかにそのころはまだ世界のどこかに大きな饗宴があったのだ。この連日連夜つづいている饗宴が果てぬうちに、早く大人にならなければと焦慮しつつ、子供たちは燈を消した子供部屋の窓から、息をこらして、夜の彼方に燦めいている城館の宴の灯を見ていたのである。(「偉大な姉妹」『ラディゲの死』新潮文庫 p.217)

 明治十年代は、西南戦争自由民権運動の勃興といった政治的事件が日本列島を席捲した激動の時代であり、幕末以来の途方もない乱世が一つの新たな秩序に結実しつつあった時期である。言い換えれば、新時代の「偉大」は既成の秩序を腕尽くで転覆しようと企てる粗野な「革命」と「反抗」を通じて成し遂げられたのだ。そこには巨大な恒星の如き「希望」が存在し、穏便で惰弱な恭順の代わりに無法な冒険と命知らずの挑戦が重んじられた。浅子の興造に対する奇態な思い入れが、こうした彼女の歴史的記憶と緊密に結び付いていることは明らかである。完全に確立された秩序の懐に養われて育った優等生の男たちは、こうした革命的な人生の姿形を実感として理解していない。新たな秩序の樹立に先立って演じられた血腥い闘争や泥臭い試行錯誤の過程は、彼らの魂の深層には根付いていない。それゆえに彼らは革命を起こした英雄たちの裔でありながらも、革命とは正反対の順応的な生き方を選び取り、傑出した英雄の輝かしい系譜から断絶したのである。

 こうした浅子の感慨は、戦時下に青春を送り、自らの悲劇的な滅亡の宿命を信じて疑わなかった三島自身の実存的な感覚と照応しているように思われる。凡俗な日常生活に埋没して、単調な時間の流れの裡で徐々に摩耗していく生き方を、彼は明確に嫌悪し、侮蔑していた。彼は超越的な破滅によって至高の幸福、神秘的な恩寵の如き幸福に与ることを夢見ていた。体制への忠誠よりも、粗野な反抗の方が重んじられる世界で、悲惨な敗残に沈むことこそ、彼の待望する栄光の姿であった。

 やがて「偉大」の観念は、浅子にとって、今や失われたもの凡ての総称になった。それは小さい家へ引越した一家がもてあます巨大な家具のようなものであり、われわれの生活に多少迷惑な微笑を強いる野放図な音を立てる柱時計のようなものであった。浅子は時の彼方に沈んで行ったさまざまな存在が心ひそかに抱いていた不満の代弁者になったのである。

 浅子の魂は、こんなに年老いているのに、諦念には決して共鳴せず、不満にだけ共鳴した。およそ人間の偉大さの度合いは彼がもっている不満の分量で測られた。左翼の労働運動について息子から話をきいたことがある。彼女の情感的な帝政礼賛の政治思想は、こういう運動に反撥を覚える筈なのが、意外にもこんな自己流の結論を与えて納得した。

「ああそうかい。そうするとその人たちは今の世の中に不服なわけなんだね。偉いもんだね。そんな人たちはきっと今に偉くなって、大臣や社長になるでしょうよ」(「偉大な姉妹」『ラディゲの死』新潮文庫 p.219)

 浅子の抱懐する頑迷なノスタルジーは明快なアナクロニズムであり、過ぎ去った時代への過剰な愛惜によって主観を歪められている。そして彼女の実存的な記憶を徴する限り、必ず「偉大」は「反抗」と結び付いているのである。思想的な内実に関わらず、あらゆる種類の叛逆的な精神が「偉大」へ通じる保証を宛がわれ、称讃される。それは余りに単純で偏頗な発想に過ぎないだろうが、少なくとも浅子自身は、そのような自己の信念を揺るぎない情熱と、日露戦争で活躍した軍人の血脈によって庇護しているのだ。

ラディゲの死 (新潮文庫)