サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「現世」と「常世」の分裂 三島由紀夫「朝顔」

 三島由紀夫の短篇小説「朝顔」(『ラディゲの死』新潮文庫)に就いて書く。

 哀切なノスタルジーと仄白い怪談の風味を混ぜ合わせた「朝顔」という小品は、自然主義的な自伝よりも、複雑な心理と難解な観念の飛び交う作為的な物語を好んだ三島の文学的系譜においては珍しく、率直で簡明な一人称の語りで、夭折した愛しい妹の鮮明な想い出を綴っている。三島が妹を熱烈に愛し、その情熱には動もすると血縁の紐帯を超えた肉慾の色彩さえ混じっているように思われたことに就いては、幾多の証言が遺されている。

 私の妹は終戦の年の十一月に腸チフスで死んだ。享年十七歳である。戦後学校へたちまち疎開の荷物が還って来て、それをリヤカーで運び入れる作業に携っているあいだ、初秋のまだ暑い日光に照らされて、咽喉が渇いた。焼跡の鉛管から出ている水を呑んだ。それが感染の経路ではないかと友達は言っている。

 私は妹を大そう愛していたので、その死は随分とこたえた。少年時代から小遣を割いて妹にものを買ってやる趣味があったが、いつも妹はあまりうれしそうな顔をしない。活動へつれて行ってやる。芝居へつれて行ってやる。それがいつもいやいやながらついて来ると謂った風である。殊に思春期になってからそれが甚しい。私はそういう妹をむりやりに可愛がるのが好きであった。(「朝顔」『ラディゲの死』新潮文庫 p.266)

 まるで坂口安吾の自伝的な随筆のように、余計な装飾や彩色を省いた簡潔な筆致は、感性と心理の錯綜した合金のような文体を好んで用いた三島の基本的な作風と比したとき、如何にも異質で奇蹟的な澄明さを孕んでいるように感じられる。たとえ現実に発生した社会的な事件への綿密な取材に依拠したとしても、必ずやそれを観念的な熔鉱炉に抛り込んで全く別様の物語へ変造してしまう作者の芸術的習慣は、この作品においては慎重に排除されている。或いは、そのような技巧を弄するよりも遥かに、真率で切実な告白を望む気持ちの方が勝ったのかも知れない。殊更に情緒的な表現を用いず、悲憤慷慨の語調を節約する作者の落ち着いた筆致は却って、その胸底に宿る凄絶な悲哀を雄弁に物語っているように思われる。凝った人為的な奇巧を駆使して独自の文学的境涯を創出しようとする芸術家の野心は影を潜めている。そうした個人的な野望や虚栄心で穢してしまえるほど、娘の病死という事件の値打は安くなかったのだろう。

 妹にはどこか可哀想なところがあった。私が寄せていたのは、愛憐の情ともいうべきものであった。妹は自分のなかに徐々に萌え出してくるものの不安と戦ってたえず焦躁しているように思われた。私はそれを思春期の焦躁だと考えていたが、妹の中に芽ぶき頭をもたげて来ていたのは、生の樹ではなくて死の樹であったのかもしれない。(「朝顔」『ラディゲの死』新潮文庫 p.267)

 「思春期の焦躁」が、子供から大人へ急激な変貌と成長を遂げつつある少年少女に固有の不安定な情動であることは、広く知られた経験的事実と思われるが、それが実際には「生の樹」の萌芽ではなく「死の樹」のそれであったかも知れないという三島の平淡な述懐は、抑制された語調ゆえに却って物哀しく痛ましい。思春期の過程で急速に変貌していく自分の心身への不安が、実際には不運な死の見えざる予兆に対する漠たる不安であったかも知れないと考えることは、妹を溺愛していた兄にとっては、相当に哀しく皮肉な感慨であったに違いない。

 妹の死後、私はたびたび妹の夢を見た。時がたつにつれて死者の記憶は薄れてゆくものであるのに、夢はひとつの習慣になって、今日まで規則正しくつづいている。

 私は死者の霊魂に対していつも哀憐の情を寄せる。霊たちは寂しそうな、悲しげな、可哀想な存在であるように思われる。それは私たちが幼時動物たちの世界に寄せた感傷的な気持に似ている。未開民族のあいだで動物たちがそれぞれ死んだ人間の霊のあらわれだと信じられている理由が私にはわかる。私たちの憐れみの感情は、何かしら未知なもの、不可解なものに対する懸橋なのである。それらのものに私たちは憧憬によってつながり、あるいは憐れみによってつながる。憧憬と憐れみとは、不可解なものに対する子供らしい柔かな感情の両面であった。よく遠くの森で梟が鳴く声を、寝床のなかで耳をすましてきいていると、子供の私は動物界の自由に対する童話的な憧れの気持と、暗い森の奥の木の洞から目を丸くみひらいて歌いつづけていなければならないあの小さな「生あるもの」への憐れみの気持とを、併せ感じた。

 霊魂というものに、やはり生の形を与えないことには、私たちの想像の翼は羽搏かないのかもしれない。生命のなかでも謎めいたもの、不可解なもの、夜の奥にとびちがい鳴きかわす小鳥のようなもの、そういうものに託して考えずには、霊のかたちを思いえがくことができないのかもしれない。

 そういえば妹には、生きていたあいだから、謎めいたやさしい小動物が思いに耽っているような表情があった。(「朝顔」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.267-268)

 「不可解なもの」に対する我々の両価的な感情、憧憬と憐憫の奇妙な心理的乳化、それに就いて何故、三島は綿々たる叙述を重ねるのだろうか。言い換えれば、彼にとって愛しい妹は「不可解なもの」の範疇に属する存在であったのだろうか。或いは、唐突な病死によって、親密であった筈の妹が俄かに「不可解なもの」へ変貌してしまったと言いたいのだろうか。

 何れにせよ、三島は「妹の夢」を規則的に見る習慣を堅持するほどに彼女を愛し、その死後も執着しており、妹の存在が「不可解なもの」であることは、その熱烈な感情の湧出を妨げるものではなかったらしい。或いは、彼女が「不可解なもの」の範疇に属する存在であるからこそ、彼は根強い「愛憐の情」を抑えられなかったのではないか。つまり、彼が妹を深く愛したのは、彼女との間に数多の共通項が介在して、二人の紐帯を強めたからではなく、寧ろ余りに対蹠的で重なり合わない要素の為に、憧憬と憐憫の入り混じった両価的感情を劇しく喚起された為ではないだろうか。三島は妹の言行の裡に自己の欠損した部分を読み取り、憧憬を募らせると共に、決して自分は彼女のようには生きられない、生きたくないという臆病な拒絶を密かに胸底へ忍ばせていたのではないか。だからこそ、妹に対する彼の執着は余計に強まったのではないか。

 夢の中では妹は必ず生きていた。医者から見離された身が、はからずも奇蹟的に助かって、私たち家族のまどいのなかに再び見出されたりするのである。

「よかったね、治ってよかったね」

 そういいながら、私は一脈の不安をぬぐえずにいる。もしかこれが夢ではないかと疑う気持をぬぐえずにいる……。(「朝顔」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.268-269)

 ところで、物語の前半において綴られる平明な自伝的感慨と、後半を占める不穏な怪談の部分との間には、如何なる有機的な繋がりが存在するのだろうか。単に亡くなった妹への感傷的な執着に就いて惻々と語ることだけが叙述の眼目であるならば、後半の怪奇な夢の挿話は不要である。しかし仮に、その怪奇な夢の挿話を欠いたとすれば、この掌編は凡庸な自伝的随筆以上の印象を読者に与えないだろう。

 「私」は夢の中で生きている妹と会い、言葉を交わし、その饒多な毛髪に触れる。しかし後に彼女が幽霊であることに想到し、動顛してタクシーの運転手に訴え掛ける。するとタクシーの運転手の手が伸びて、その爪が「私」の腕に突き刺さる。こうした一連の挿話の細部に就いて明確な象徴的意味が説明されることはない。作者は如何なる意図を備えて、この怪奇な夢に就いて語ったのだろうか。作者自身、どうにも理解し難い夢想の生々しい情景を淡々と記録したに過ぎないのだろうか。

 死んだ筈の妹の夢を繰り返し見る人間の胸底には、如何なる願望が宿っていると考えられるだろうか。端的に思い浮かぶのは、愛しい死者との再会を希う感情であろう。けれども「私」が夢の世界で出会うのは、奇蹟的な復活を遂げた妹ではなく、飽く迄もその亡霊である。最後に登場する顔の見えないタクシーの運転手も恐らく同類の眷属である。つまり、夢の中で「私」は死者の亡霊たちの暮らす世界に足を踏み入れているものと推察される。

 死者との再会を熱望する気持ちは、一歩間違えば「自分も一緒に死んでしまいたい」という剣呑な欲望を秘密裡に醸成しかねない。死者を愛おしいと感じる情熱が強ければ強いほど、死者を欠いた現世の出来事は悉く虚しく退屈に感じられるだろう。それならば無味乾燥な現世を足早に脱け出して、死者の暮らす冥界へ自分も旅立ってしまいたいと望むのは、如何に奇態であっても普遍的に生じ得る心理的現象であると言える。死者を愛する気持ちは、現世に対する人間の執着を衰微させる。論理的に考えれば、死者の亡霊と再会し、その肉体に触れる為には、自分自身が予め死んでいる必要がある。少なくとも死者の亡霊は、生身の人間が暮らす現世とは異なる位相に配置されている筈であるからだ。

 私は永い旅を終えて家へかえった。夜である。家へかえって又出かけなければならない用件があるらしい。何かそれは大事な早急の用事である。荷物があるので駅から家まで傭って来た自動車を、そのために門前に待たせてある。(「朝顔」『ラディゲの死』新潮文庫 p.269)

 この「永い旅」とは何を意味する言葉だろうか。彼は一体、何処から帰って来たのだろうか。少なくとも物語の表層を辿る限りでは、彼の帰投した場所は死者の亡霊だけが暮らす家である。尤も、彼はその家に長居する予定ではない。再び遽しく外出しなければならない立場で、僅かな時間を割いて、彼は「お留守番」を命じられた妹の美津子と二人きりで言葉を交わす。その時点では「私」は認識していないが、彼が帰って来た場所は死者の家であり、生者のように描かれる妹は紛れもない亡霊である。

 若しも「永い旅」が「私」の現実における煩瑣な社会的生活の暗喩であるならば、その精力的な日常の僅かな裂け目において、彼は半ば強いられるように死者の家へ帰還せざるを得なかったのかも知れない。つまり、常日頃は雑事に追われて無意識の水面に沈んでいる妹への切ない愛着が、定期的に回帰することを自力では抑えられなかったのではないか。死者に会いたいという切迫した情熱は、彼の精神を通俗的な社会生活から否応なしに引き剝がしてしまう。この場面において「私」の妹に対する愛情は、必ずしも露骨な表現によっては示されていないが、恐らく妹の夭折が惹起した「私」の内面的な危機はかなり甚大なものであったのだろうと推察される。「私」は自分自身の現実的な生活と、死者に対する法外な愛着との狭間で、危険な分裂を病んでいるように思われる。彼の夢想は切実な願望であると同時に、危険で甘美な誘惑でもあるのだ。

 死人を恋い慕うこと、これほど剣呑で報われない熱望が他に考えられるだろうか。そもそも幽霊という概念自体が、そうした不可能な欲望の要求する夢想であると言える。死んでしまえば人間は物質に還元されるだけだという唯物論的な認識が如何に正当な根拠に基づいていたとしても、人間の内部に滞留する法外で観念的な欲望は、そのような尤もらしい科学的理窟に対して必ずしも従順であるとは限らない。死者の記憶、死者に対する愛着や憎悪は、事切れた瞬間に総てが終わるという酷薄な真理を尊重せず、乱暴に黙殺する。だからこそ、我々は幽霊という得体の知れない幻影を編み出して、死者の退場した現世の渦中で、猶も死者の存在を一つの精神的な構図の裡に配置せずにはいられないのである。無論、死者を死者として待遇する諸々の礼節や作法は、人間にとって重要な働きを成す営為であるが、死者との物理的な再会を希う熱烈な情動は明らかに病態の部類に属していると言わざるを得ない。その意味で、この「朝顔」という掌編は、その沈着な筆致とは裏腹に、或る時期の三島を襲った深刻な精神的危機の象徴的な記録という性質を孕んでいるのである。

ラディゲの死 (新潮文庫)