サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主の幸福論 20 セネカ先生のストイシズム(十二)

 引き続き、古代ローマの賢者セネカ先生の有難い教えに就いて個人的な感想を認めておきたい。

 セネカ先生の幸福論は明らかに、古代ギリシアに発祥した旺盛な哲学的思考の系譜に自らの濫觴を得ている。つまり、神話的な解釈に惑わされず、事物の構造や実質を万事、論理的に分析して精緻な証明を積み重ねていく主知主義的な方法論が、セネカ先生の思想の裡には明瞭に息衝いているのである。そして、理性の健全で適切な運用を通じて自己の浮薄な情動や野蛮な欲望を律し、外在的な事柄に決して惑わされず、正しい道程を歩み続けるという先生の克己心旺盛な倫理学は、情動や欲望に対する理性の根源的な優越を聊かも疑っていない。

 「しかし、お前が徳を尊ぶのは、ほかでもない、徳に何らかの快楽を期待してのことではないのか」、そう言う人もいよう。第一に、なるほど徳は快楽を与えてくれはするであろうが、だからといって、その快楽ゆえに徳が求められるわけではない。徳は快楽を与えるのではなく、快楽をも与えるのであり、快楽のために働くのではなく、その働きは、目指す目的は別にありながら、快楽をも与えるという副次的な作用をともなうのである。喩えて言えば、作物のために耕された畑地には作物のあいだになにがしかの草花が生え出てくるが、なるほど目を楽しませてくれるものとはいえ、その小さな草花のためにあれほどの労力が費やされたわけではない――種蒔く人の意図したものは別であり、草花は副産物にすぎない――、それと同様に、快楽もまた徳の対価でもなければ、徳を求める動因でもないのである。徳が愉悦を与えてくれるから徳をよしとするのではなく、徳をよしとすれば、徳は愉悦をもまた与えてくれるのである。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 p.151)

 この一節もまた、偉大なるエピクロス先生の名が不当に冠せられた悪しき享楽主義の文脈に対する批判的な言及の意図の下に綴られている。しかし既に述べた通り、エピクロス先生の倫理学的知見は貪婪な享楽主義の対極に位置する、極めて質素な幸福への愛着によって構成されているのであり、況してや肉体的な享楽を「最高善」と混同するような妄断とは無縁である。エピクロス先生とセネカ先生との間に、誤謬と曲解に満ちた疎隔を見出すのは適切な判断であるとは言い難い。

 セネカ先生が「快楽」という言葉で指し示しておられるものは、主として肉体的=感性的な享楽である(エピクロス先生にとって「快楽」とは専ら「苦痛の欠如」を意味しており、積極的な官能の喜悦とは峻別される)。この「快楽」を獲得する為の迂遠な手段として、貴方は「最高善」を求めているに過ぎないのではないか、というヘドニストの論難に対して、先生は明確な否認と反駁を提示する。先生が「幸福」或いは「徳」という言葉で指し示しておられるものは断じて肉体的な享楽ではない。肉体的な享楽を人生における至高の価値と看做す人々は、享楽という構造自体の抱え込んでいる根源的な難点に就いて、行き届いた理解を獲得していないのではないかと思われる。享楽への耽溺は、絶えざる渇望を動因として、貪婪な無限の循環の裡に自らの心身を投じる行為であり、燃え盛る欲情の焔が絶対的な充足へ到達して消滅することは有り得ない。肉体的な享楽を味わうことがあったとしても、それを副次的な経験の範疇に留めて、決して積極的に享楽の再生産を望まないように努めること、それがセネカ先生の主張の眼目である。

 最高善は、最良の精神の判断そのものと、その精神の恒常的なあり方の中にある。この最良の精神が自己充足し、みずからをみずからの引く境界で囲い終わったとき、最高善は完成され、精神はそれ以上のものを必要としなくなる。全体の外側には何もない。境界の向こう側には何もないのと同様である。それゆえ、徳を求めて得ようとする対価は何か、などと尋ねるのは間違っている。最高のものよりさらに高いものは何か、と尋ねていることになるからだ。徳から何を得たいのか、と尋ねるのか。徳そのものである。徳は徳以上に善きものを有さず、徳それ自体が徳の対価なのである。これほど大きな対価でもまだ不足だというのであろうか。私が「最高善とは不壊の精神の強靭さ、先見の明、崇高さ、健全さ、自立、調和、優美だ」と言っているのに、それでもまだ、そうしたものがそこへ還元される、さらに大きな対価や動因を要求しようというのか。私に向かって「快楽」という言葉を口にしてもむだである。私が求めているのは人間の善であって、腹の善ではないからだ。腹なら、人間より家畜や獣のほうが大きい。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 pp.151-152)

 セネカ先生は「徳」を「快楽」の手段として位置付けるヘドニストの議論を厳格に斥けておられる。先生が「徳」や「最高善」といった言葉で指し示しておられるものは、何らかの快楽ではなく、寧ろ一切の快楽から解放された自由で柔軟な精神への安住なのである。ヘドニズムは、理性を首班とする宥和的な政権の樹立を望まず、寧ろ欲望の無際限な充足の為に理智の力を悪用し、本来ならば崇高な統治者であるべき理性を奴隷のように虐使する逆臣の思想である。言い換えれば、ヘドニズムは心身に内在する政治的秩序の腐敗と堕落によって形成されるのである。「徳」を希求する先生の誠意を疑って要するに「快楽」を得る為の手段ではないかと難詰する人々は、そもそも先生と同等の視野を確保し得ていない。遺憾ながら、不毛な謬見に過ぎないと言わざるを得ない。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫