サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(COVID-19)

*三月の半ばに上司から人事異動の内示を受け、四年間を過ごした千葉の店舗から東京都心の店舗へ移ることが決まった。三月の下旬に東京都知事が強力な外出自粛要請のメッセージを出し、四月八日には緊急事態宣言の発令に及んで、配属先が期限の定かならぬ休業に入って、私は宙吊りとなった。五月一日から後任との引継ぎを行ない、それも端午の節句を最後に概ね完了となって、愈々私は社内失業の状態に近付いた。とりあえず六日から十日までは有休消化の予定である。急激な景気悪化に伴って勤め先が廃業してしまった人々に比べれば遥かに恵まれた身分であるが、こういう御時世に長い休みを貰っても却って落ち着かない。

 給料を貰って休んでいるのだから、恨み言や泣き言など烏滸がましいと言われるかも知れない。けれども、この宙吊りの心境には、生きることのリズムを攪乱するような危うさが潜んでいる。是が非でも直ちに仕事がしたいと言っているのではない。社会との接点が俄かに薄らぎ、溶けてしまったような心許なさが消えないのだ。

 けれども、開き直って生きるしかない。登園自粛中の娘と、それに伴って仕事を休んでいる妻と、晴れた日には自転車で公園を巡る。人混みを避けて、成る可く空いている未知の公園を探し求める。娘が登園を控えるようになってから、サイクリングだけが彼女の体力を奪う唯一の手段だ。疲れなければ、子供は眠らない。四歳児ともなれば、そう簡単には親の意向に従わない。彼女はマスクを着けて、見慣れない遊具に夢中になる。水辺の虫や魚に見蕩れて屈み込む。閑散としたゴールデンウィーク、引継ぎの合間の休日に、花見川のサイクリングロードを北上して、気付けば勝田台まで行ってしまった。川辺には釣り人が佇み、自転車の傍らをランナーが行き交う。新規感染者の数は減っているという。サドルに跨って見上げる空の透き通る青さは、どんなウイルスにも穢れていないように見えるが、それさえ恐らくは錯覚なのだろう。

 海沿いの道、アクアリンクから海浜幕張を経て船橋へ至る長い道も、サイクリングに適している。娘は後部座席に凭れて時々居眠りする。母が郵送してくれた手作りのマスクと、ヘルメットに挟まれて、閉ざされた瞼の線さえ定かに見えない。吹き抜ける風は清冽で、太陽は神々しいほどに輝いている。幕張メッセの駐車場には自動車一台の影もない。コストコの駐車場へ向かう車列が混雑を極めている。芝園の清掃工場の煙突、傍らに広がる明るい霊園、或いは静まり返ったマリンスタジアム、営業を休止した稲毛海浜公園のレストラン、誰もいないフェンス越しの高等学校。竹刀のようなものを携えた警官が入り口に佇んでいる機動隊の敷地。千葉港の夕景。子供の投げるかっぱえびせんに群がる海鳥のけたたましい叫び声。犬の散歩をする裕福な夫婦。潮干狩りの母子。消波ブロックの崖を徘徊して貝類を拾い集める不審な男。サッカーボールを蹴飛ばす少年と青年。路傍に転がって薄汚れた、誰かの遺骸のようにも見える使い捨てのマスクの複数形。

 新型コロナウイルスは私たちの暮らす世界を書き換えた。その痕跡は恐らく収束によっては除去されない。布マスクはファッションとなり、強いられるマナーとなり、冬場にマスクを着けずに出歩く人間は、下着だけで街路を往く変態のように見咎められるだろう。感染経路の徹底的な把握、行動履歴の記録の開示は、人間社会の吹き溜まりの闇を掠れさせるだろう。恋愛や性交に対する人々の警戒心は更に高まり、体液を交換するあらゆる営みは公序良俗以前に、公衆衛生に反すると看做されるようになるだろう。オンラインで結び付き、オフラインで失望する恋人たちが増えるだろう。或いは、オンラインならば他者と適切に結び付くことの出来る、電子的亡霊の如き人間が増えるかも知れない。他者との接触を罪悪と看做す新たな信仰。グローバリゼーションの終焉。保護主義の台頭。だが、私たちは生身の人間を求めずに済ますことが出来るだろうか? 人肌の温もりを忘れられるだろうか? 同じ場所、同じ時間を共有する歓びを捨て去れるのか? 私たちは離散的な信号の羅列ではない。布マスクにさえ、見た目の美しさを求めずにはいられない、不可解な存在なのだ、人類は。オンライン飲み会が成立するのは、そもそもオンラインの距離感が相応しい間柄だからではないのか? だが、そんな無粋なことを口にするのは差し控えよう。世界に希望を。ウイルスに薬を。私に仕事を。子供たちに学校を。そしていずれは、街に再び賑わいを。