サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ショーペンハウアー「幸福について」に関する覚書 2

 引き続き、ドイツの哲学者ショーペンハウアーの『幸福について』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 ショーペンハウアーは、自らの皮肉で厭世的な幸福論(この逆説的表現自体が、既に皮肉なニュアンスを帯びている)を起筆するに当たって、アリストテレスの分類に倣いながら、人間の運命を規定する諸々の要素に就いて、大まかに三種の範疇を提示している。

 一、その人は何者であるか。すなわち最も広義における人品、人柄、個性、人間性である。したがって、ここには健康、力、美、気質、徳性、知性、そして、それらを磨くことがふくまれる。

 二、その人は何を持っているか。すなわち、あらゆる意味における所有物と財産。

 三、その人はいかなるイメージ、表象・印象を与えるか。この表現は周知のように、その人は他者の表象・印象において何者なのか、すなわち、そもそも他人の目にどのように映るかという意味である。したがって実質的には、その人に対する他者の評価であり、名誉と地位と名声に分かれる。(『幸福について』光文社古典新訳文庫 pp.12-13)

 ショーペンハウアーは、三番目に挙げた「他人の目にどのように映るか」という要素の意義を極めて控えめに見積もっている。他人の意識の裡に映じた自己の姿は、客観的には実在しないというのが彼の基本的な見解であり、従って他人の意識に映じた自己の姿に就いて一喜一憂するのは、鏡像を実体と混同する類の愚行に過ぎないのである。こうした観点は、古代ギリシア・ローマにおける倫理学の基礎的な設計との差異を感じさせる。プラトンにせよ、アリストテレスにせよ、彼は世界を包摂する超越的な審級としての「神」の関与を疑っていない。言い換えれば、万人に妥当する普遍的な真理の実在と、それに到達する為の方法の普遍性を暗黙裡に前提している。共通の「天蓋」が存在することを、普遍的な事実として受け容れた上で、彼らは個別的な議論を展開している。真理の適切な把握に失敗する人間が現に存在するのは、それが何らかの障碍によって妨げられているからだという説明の図式が採用されているのである。しかしながら、ショーペンハウアーの学説は、そのような共通の基盤を根底において疑問視している。だからこそ、自分自身に備わったものの価値の称揚と、他人の表象の裡に存在する自己の映像の無価値の強調という相互に関連した見解が析出されることとなるのである。古代の議論は、その要所において普遍的で万能な「神」の実在を公理と看做すことによって、証明の困難を突破するという手続きを頻繁に踏んでいる。それは万人に妥当する共通の真理への信頼を、彼らが決して除外しようとしないことの必然的な帰結である。

 すなわち、人間の内なる快・不快は、なによりもまず本人が感じ欲し考えた結果として、直接的にみずからの内にある。これに対して、外部にあるものはすべて、間接的に快・不快に影響をおよぼしているにすぎない。だから外的事象や外的状況が同じでも、受ける刺激は人によってまったく異なるし、同じ環境でも、人によってそれぞれ異なる世界に生きている。というのも、人が直接的に関わり合うのは、みずからが抱く観念や感情や意志活動だけであって、外的な事柄は、そうした観念や感情や意志活動のきっかけをつくることで、その人に影響をおよぼすにすぎないからである。ひとりひとりが生きる世界は、何よりもまず、その人が世界をどう把握しているかに左右され、それゆえ、頭脳の相違に応じたものとなる。頭脳次第で、世界は貧弱で味気なくつまらぬものにもなれば、豊かで興味深く意義深いものにもなる。たとえば多くの人々は、他人の身に起こった面白い出来事ゆえに他人をうらやむが、むしろ、描き出すことでその出来事に意義深さを与えた、その把握の才ゆえにうらやむべきであろう。というのは、機知に富む頭脳の持ち主がかくも興味深く描き出した出来事でも、浅薄で凡庸な脳みその持ち主は、ありふれた日常世界の味気ない場面として把握するだけであろうから。(『幸福について』光文社古典新訳文庫 pp.14-15)

 個人によって思考や感情の様式が異なることは、古代の社会においても鮮明な事実として認識されていただろうと思われる。けれども、人間の精神と外界の現実との相関や影響の構造は、少なくともショーペンハウアーの生きた十九世紀よりも遥かに簡明で直接的な秩序として把握されていたように感じられる。古代ギリシアの社会が普遍的な「天蓋」の共有を根本的な原則として運営されていたとすれば(個別的な「ポリス」を超越した「ギリシア」という観念のように)、十九世紀ドイツの社会は「天蓋」の不可能性を認知し始めた世界であると言えるかも知れない。個人の主観性の被膜は頗る分厚く弾性に富んだものとなり、外界の現実が個人の内面に及ぼす影響は日増しに減殺され、個人と世界との関係は極めて恣意的な多様性を獲得するに至った。それゆえにショーペンハウアーの幸福論は、人間の行動や感情を支配する普遍的な規矩に就いて論じたり、社会的な称讃を浴びる行為を「善」と看做したりすることよりも、各自の主観的世界の豊饒さを重視する方向に舵を切り、結果として極めて内在的な性質を帯びたものと化したのである。彼の幸福論は、社会的な承認を享けた客観的な善性と幸福とを結び付ける古代の倫理学とは異質である。他人の意見や、他人の眼に映じた自己の虚像が、幸福の実現に寄与するという考え方を彼は明確に排斥する。「だれひとり、自分の個性を脱することはできない」(p.17)のであるならば、万人に適用し得る普遍的な真理を探究することは必ずしも有益な作業ではない。「教示と習慣」によって「徳」(arete)を涵養し、幸福の実現を成し遂げるアリストテレス倫理学的なプログラムは、極めて革め難い個性の桎梏に呪縛された個人というショーペンハウアー的な観念とは親和しないだろう。古代の「幸福」には客観的な実在性が備わっていたが、ショーペンハウアーの「幸福」は非常に主観的で閉鎖的であり、その普遍的な特性に就いて論じることは少しも容易ではないのである。