サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

対話篇「幸福と享楽」

甲:君は最近、頻繁に「幸福論」に類する書物を読み耽って、彼是と頭を悩ましているらしいね。冷酷で口の悪い君のような人間と、美しく道徳的な「幸福論」との取り合わせは何だか奇妙な印象を受けるが、一体どういう風の吹き回しだい。

乙:何か深刻な理由があるという訳じゃないさ。三月の頭に体調を崩して、珍しく長い期間、仕事を休んだ。自分も余り若くないんだなということを改めて実感する、何ともほろ苦い貴重な時間になったよ。人間は誰しも、大切なものの価値を、喪失の後に痛感すると言い古されているね? 要は、そういう世間一般の通俗的な道程を私も辿って、聊か殊勝な心持で「幸福」に就いて真剣に考えてみようと思い立った訳さ。「享楽」を追い求めるだけの生活に堪え得るには、無防備な若さというものが、肉体的にも精神的にも欠かせないものだからね。「享楽」とは峻別される「幸福」に就いて、その本質的な要素を理解しておくのは賢明な心掛だとは君も思わないかい。

甲:それは如何にも御尤もな正論だとは思うが、そう簡単に答えの出るような、軟弱な主題だとは思えないのが気懸りだね。そもそも、何を以て「幸福」と感じるかは個人によって千差万別だ。その千差万別の主題に何かしら首尾一貫した本質を見出そうというのが君の計画の眼目かね。

乙:要するに、そういうことだ。事実、何を以て「幸福」と感じるかは、人によって異なるし、生涯の裡の時期によっても、その人間が置かれている社会的な境遇によっても左右される。趣味嗜好は生物学的多様性の見本市のような分野だ。だが、多様であることは法則の不在を必ずしも意味しない。単純なパターンの反復が、僅かな偏差の為に極めて巨大なカオスを生成することは広く知られている。表面的な現象だけを受け取れば、我々は余りに繁雑で厖大な現象の生起に眩惑されて、その不規則な律動に何らかの超越的な意図や本質的な構造が備わっているとは信じられなくなってしまうだろう。けれども、冷静に考えてみれば、そこには必ず何らかの規則が内在している筈だ。見えなくなってしまったパターンを、慎重な解剖の涯に発見するという栄誉は、我々人類の理性に対して許された恩寵の中では最大の、至高のものではないかね?

甲:それはその通りだろうが、理想の大風呂敷を広げるだけでは意味がない。きちんと畳み方を弁えていなければ、風呂敷はきっと風に煽られて宙を舞うだろう。

乙:君は「幸福」の定義に関して、何か有用なアイディアを持ち合わせているかい。

甲:余りそういう問題に真剣な関心を寄せたことがないから分からないね。君は先ほど「享楽」から峻別されるような「幸福」に就いて考えたいと註釈を附した。それは要するに、道徳的な清廉さや、或いは宗教家の索漠たる境涯の裡に一縷の光明を見出すような、そういう聊か厭世的な隠者を想起させる類の「幸福」の形に期待を寄せているという意味かね。

乙:それは一つの有力な選択肢だが、だからと言って直ちに最終的な結論だと断定し得るものではないね。この一年ぐらい、私は古代ギリシアやローマの思想家たちの著述に含まれた倫理学的な知見に就いて愚考を巡らせてきた。具体的にはプラトンエピクロスセネカといった古代の賢者たちの典籍に触発されて、所謂「享楽」を「幸福」と区別する考え方に親しんできたのさ。尤も、そのような関心が、私の老化の前兆に過ぎないと、意地悪な君は思いたがるかも知れないがね。

甲:別に君だけに限られた話じゃないさ。若い頃に遊興へ耽った人間が、齢を重ねて気弱になり、如何にも古臭い道徳的な生活を無闇に珍重するようになるというのは、人類の社会に根差した年代物の宿痾には違いないだろう。「享楽」の追求には、君も先ほど言ったように、旺盛な体力や向こう見ずの精気が不可欠だ。自分は未だ若く魅力的な人間だと思っている間は、なかなか一人の女に操を立てて所帯を構える気にはなれない。経済が活況を呈している間は、誰しもより良い待遇や歓びを願って飛蝗のように転職したがる。ところが自身の加齢による衰えを実感したり、不況で生計の先行きが見えなくなったりすると、途端に人間は貪婪な狩人の情熱を下水道に流して、例えば「少欲知足」なんて御題目に縋り始めるものだ。君の病気だって、要するにそういう衰弱や不況の眷属のようなものだろう。

乙:概ね、君の観察は誤っていないね。実際、病気に罹って立ち上がる気力もなくなれば、誰だって強烈な快楽よりも白湯のような穏やかな健康、呑気な安住に憧れるようになるものさ。「享楽」を味わうには、相応の気力と体力が要る。劇しい飢渇に苛まれながら、それを解決する具体的な手段に向かって積極的に行動しようとする動物的な意欲が不可欠だ。だから、衰弱した人間が俄かに「幸福」へ手を伸ばすのは、如何にも滑稽だが普遍的な現象なのだ。

甲:それで君は、病床から恢復すると共に、そういう無味乾燥な節倹の原理に物足りない想いを感じるようにはならなかったのかね? 先述した理窟に従うのならば、肉体の健康が改善すれば、それに比例するように享楽的な欲望の情熱も息を吹き返すことになるだろう? 言い換えれば「幸福」とは「享楽」に対する疲労の裡に胚胎するものなのではないか? 或いは、探し求める「享楽」の水準の低下に過ぎないのではないか?

乙:君の意見は聊かシニカルだ。通俗的なイメージとしての老境の「幸福」を、あらゆる種類の「幸福」に優越する代表的な銘柄として押しつけがましく掲げるのは短絡的な発想だよ。「享楽」に対する疲労が、或る種の「幸福」への希求や憧憬を培養するのは有り得ることだ。けれども「幸福」の全貌を、それだけで表現し切ったと考えるのは流石に性急だろう。心身が衰弱しなければ「幸福」の果実に与ることは出来ないのか。いや、そんな狭苦しい結論に、私は興味を覚えないね。

甲:青年の「幸福」は「享楽」と完全に峻別されると思うかい? 自分自身の十代や二十代の季節を思い返してみるだけでも、そんな馬鹿げた理窟が妄言に過ぎないことは鮮明になるのではないかね。愛する女を抱きたいと願い、一夜を共に過ごして何物にも代え難い幸福な陶酔を味わうとする。それは所詮「享楽」に過ぎないと君は言うのか? 女に少しも欲情しなくなれば「幸福」の桃源郷へ立ち入る為の切符が給付されるとでも? 寧ろ人間は、想いを遂げられない苦痛な状況を最大の「不幸」と看做す生き物だと、私の乏しい経験は告げているよ。

乙:それはその通りだ。だが、あらゆる「享楽」が完全に充たされることは有り得ないと学んだときに、我々は「享楽」の貪婪な追求以外の人生の選択肢というものを考慮しなければいけなくなる。「享楽」を求めて充たされないとき、我々は劇しい飢渇の裡に留置される。場合によっては、その「享楽」を断念することも必要だ。けれども、若しも「享楽」の充足だけが我々の生活における「幸福」の唯一の根拠であるならば、断念や節制は、つまり理性的な統制は無用の長物と化すだろう。古代の賢者たちは、そのような節制そのものに快楽を見出すことを勧めている。節制自体が快楽となれば、我々は叶えられない望みに引き摺り回されて我を忘れ、愚行や悪徳に傾く危険から解放される訳だ。そうやって獲得される精神の平安こそが「幸福」の根拠であり形式であると、先賢は語っておられる。こうした見解には、強力な説得力が備わっていると思わないかい。

甲:だが、それは欲望を、つまり「享楽」を完全に棄却せよと命じている訳ではないね? 報われない望みに就いては適切な諦念を導入すべきだと言っているに過ぎない。つまり、原則としては「享楽」が人生における輝かしい精華、特権的な喜悦の瞬間であるという事実は動かないのだ。何らかの欠乏や不足を埋め合わせる過程で得られる「享楽」の経験を求めること自体は決して悪徳でも蛮行でもない。要するに匙加減の問題だ。無謀で分不相応な願いは捨て去るべきで、叶えられる望みなら積極的に求めるべきだ。つまり、君の考えるように「享楽」と「幸福」とを相互に対義的な関係の裡に定位するのは適切な結論ではない。死に至る不治の難病ならば、病と折り合いをつける以外に限られた人生の時間を慈しむ方法はないだろう。けれども、治り得る病気ならば積極的に治癒を求めるべきだ。「享楽」を棄却することによって「幸福」が得られるという考え方は、余りに覇気を欠いているし、無味乾燥な方針じゃないか。

乙:無論、私だって「幸福」の領域から総ての欲望や「享楽」を追放しようと息巻いている訳じゃないし、そこまで強固で清廉な確信を懐いている訳でもないさ。だが、君も先ほど言ったように「享楽」は何らかの欠乏や飢渇、苦痛が解消される過程において顕現する時間的な経験だ。つまり、必ず足早に過ぎ去り、失われるものだ。人はどんな獲得の歓びにも慣れてしまう生き物だろう? 切実に願い続けて漸く手に入った「享楽」に、人間がどれほど迅速に飽きてしまうか、倦怠が如何に人間の「享楽」と親しいか、君にも具体的な心当たりがない訳じゃあるまい。「享楽」を至高の規範として設計する限り、我々は苦痛な自転車操業から決して脱け出せない。一つの苦痛が癒される短い時間の裡に「享楽」を味わい、一つの精神的な均衡が訪れれば、我々は直ちにその「享楽」の記憶を失って大きな欠伸を奏で始める。つまり、次なる渇望が求められるのさ。享楽的な人間は、何らかの充足や均衡の裡に安住して、豊かな時間を味わう能力を欠いている。彼らは要するに刺激や興奮の奴隷であって、理智的な充足、何物にも妨げられず揺らぐ見込みのない完全な充足に就いて無智なんだ。「幸福」という境地は、貧弱な欲望だけで満足すべきだという景気の悪い話じゃない。欲望や享楽の大小は、本質的な論点じゃない。「享楽」という瞬間的な喜悦に囚われないことによって初めて、我々は永続的な喜悦、つまり「幸福」という名の喜悦にゆったりと浸かることが出来るようになるんだ。

甲:だが、享楽的な欲望は大部分の人間にとって最も重要な「生」の根拠であり、原動力である筈だ。現状に満足しない劇しい飢渇だけが人類の進歩に貢献してきた。君はそうした現実的な歴史の過程を黙殺する積りかい。飽くなき野心、飽くなき情熱、飽くなき欲望だけが我々を進化させ、発展させる。現状に甘んじるだけならば、如何なる進歩も革新も起こり得ないじゃないか。その意味では、君の定義する「幸福」は余りにも退嬰的な観念であると言えるのではないかね?

乙:単なる享楽的な欲望が、人類の持続的な発展や成長を促すと、君は本気で信じているのかい? 様々な画期的発明が、瞬間の「享楽」に対する憧れに駆り立てられただけで仕上がったとでも言うのかい。「享楽」は束の間の歓びに過ぎない。それが人類の粘り強い発展を支えられると思うのは愚かしい考えじゃないか。

甲:「享楽」が短命なものであることは、わざわざ君に説かれずとも承知しているさ。けれども、その短命という性質こそが、人類を一箇所に踏み止まらせず、千篇一律の保守的な生き方を破壊する主要な動因として作用してきたことは、客観的な史実だと思わないかね。直ぐに現状に慊らない想いを抱える生き物だからこそ、人類は総体として、絶えず革新を繰り返し、明るい未来へ向かって泥臭い前進を維持してきたのだ。欲望は人類の根本的な電源だ。それを欠いたら、如何なる健全な変化も素晴らしい革命も有り得ない。

乙:君は意図的に「成長」と「幸福」を同一視しているように見えるね。だが、私の考えでは「成長」は一つの歓びの原因ではあっても、揺るぎない「幸福」の基礎だとは言えないのだ。何故なら、少なくとも個人の次元においては、生まれてから死ぬまでずっと成長し続けるということは出来ないからだ。人間は必ず衰滅の局面を迎えるように定められている。衰滅の局面においても猶、人間は「幸福」を感じることが出来るというのが、私の主張だ。無論、希望的観測に過ぎないと君は嗤笑するかも知れない。けれども、逆境においても猶、失われることのない堅牢な不動性こそ、私の考えでは「幸福」を「享楽」から峻別する最大の特徴なんだ。「幸福」は内在的なもので、必ずしも客観的な判定の基準を要しない。それは「享楽」に関する我々の通俗的な基準、つまり如何なる営為を「享楽」と看做すかという審美的な基準とは直接的な相関を持たないのだ。「成長」は内在的なものじゃない。それはもっと客観的で、誰の眼にも明らかな、つまり公共的で普遍的な性質を備えている。「享楽」の方は確かに主観的な多様性を含んでいるが、例えば性的な「享楽」は、現象としては客観的なものだ。

甲:君の議論は少し恣意的な展開に傾いているように聞こえるね。その「内在性」という概念の定義が今一つ鮮明じゃない。「幸福」が内在的であるというのは、分からないでもない。何を以て「幸福」と感じるのかは人それぞれだからね。しかし性的な「享楽」が客観的なものであるというのは適切な見解だとは思えないね。性的な「享楽」の内実だって個人によって千差万別じゃないか。人の性的な嗜好は実に多様だよ。主観の数だけ存在すると言ってもいい。

乙:確かに言葉が足りなかったかも知れないな。私が言いたいのは、つまり「幸福は内在的なものである」という命題の意図は、我々の感じる「幸福」の定義は、外界の条件によって直接的に指定されないということなんだ。「幸福」は外界の客観的な現実を強力に再編する。けれども「享楽」は外界の条件と完全に地続きだ。酒がなければ酩酊の「享楽」は味わえない。傍に女がいなければ情事の「享楽」は手に入らない。つまり「享楽」の成否は、外在的な現実の言いなりに他ならないし、絶えず外界の裡に対応する事物の存在を求めずにはいられないという意味で「外在的なもの」だ。「享楽」の成立は外界に依存し、外界の裡に具体的な根拠、物質的な媒介を求めずにはいられない。自分だけで味わうということが「享楽」の場合には構造的に許されない。けれども「幸福」は完全に「内在的なもの」で、専ら孤独の裡に親しまれる揺るぎない喜悦だ。自分自身の個人的な判断だけで生み出せるものなんだ。

甲:そんな「幸福」は単なる自閉的な妄想に過ぎないじゃないか。如何なる客観性も有り得ない、誰とも共有し得ない偏狭な感情じゃないか。

乙:「幸福」は感情じゃない。享楽的な欲望でもない。それは自立した生活の裡に身を置いているという自覚から導き出されるものだ。その意味では「幸福」だって他人と分かち合えるものだよ。複数の幸福な人間が集まれば、彼らは互いの裡に「幸福」の透明な光を認めるだろう。

甲:君の意見は極端過ぎるよ。「幸福」から「享楽」を排斥するという論法には断じて賛同し難い。エピクロスだって、あらゆる欲望を排除しろとは言っていない。必要な欲望と不必要な欲望を識別せよと言っただけだ。プラトンだってセネカだって同じだ。彼らは欲望を適切に支配せよと戒めただけだ。

乙:おや、君も案外、古代の倫理学の教えに詳しいんだね。やはり「幸福論」に関心があるんじゃないか。確かに、あらゆる欲望を廃絶しようと思ったら、原理的には「死」以外の選択肢は存在しない。しかし死んでしまえば、生者の「幸福」を議論したり模索したりする必然性自体が消滅してしまう。その意味では、我々の生命活動の維持に役立つ種類の欲望は、エピクロスの教説に倣って鄭重に遇するべきだろう。しかし、余剰で空虚な欲望の範疇に就いては、彼らを野放しにしたり、その活動における主権を認めたりするべきじゃない。

甲:先ず君は「幸福」を「純然たる内在性」と看做す定義に就いて率直な訂正を試みるべきだ。例えば外界に食物や水分を求める生理的な欲求を絶ち切るべきだと君は思うか? 食欲を失って日に日に痩せ細り、衰弱していく人間が「幸福」であると思うか?

乙:だが、食欲を失って死に瀕する人間にも、少なくとも理論的には「幸福である余地」が認められて然るべきだろうね。

甲:それは君の願望に過ぎない。或いは、理論的な要請に過ぎない。そのような境遇の人間が現実に「幸福である」と言えるかどうかを尋ねているんだよ。

乙:その可能性が乏しいと考えられること自体は素直に認めよう。但し、幸福である確率はゼロではない。何を以て「幸福」と感じるかは、内在的な問題だ。火に焼かれる殉教者が「幸福」を感じなかったと誰が断定できるだろう? 肉体的な苦痛は、必ずしも人間の「幸福」を毀損しない。不治の難病を患っていても、自分のことを「幸福な人間である」と看做すことは可能だ。但し、それには相応の訓練が要るだろう。

甲:君の意見では、要するに「幸福」へ向かう努力とは、外界の事実に対する心理的な麻痺を獲得することに等しいんだね。世界の何処かで恐ろしい惨劇が起きたと知っても、変わらずに涼しい顔で眠っていられるような冷酷さが、君の信奉する「幸福」の領域へ参入する為には不可欠のようだね。

乙:確かに「幸福」が厳密に内在的なものであるとしたら、恐らく「他者の幸福を扶助する」という作業は不可能か、或いは極めて困難なものとなるだろうね。だが実際、他人の「幸福」を当人に代わって調達してやることは、頗る善良な人間にとっても不可能なことだと思わないかね。

甲:それは人類の美しく崇高な連帯を否定することになるよ。「内在的幸福」という概念は、余りに個人主義的で、何より孤独だ。

乙:孤独は「幸福」を本当に妨げるだろうか?

甲:私には分からないよ。今後の君の研究の進展に期待しておくさ。