サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ショーペンハウアー「幸福について」に関する覚書 3

 引き続き、ドイツの哲学者ショーペンハウアーの『幸福について』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 ショーペンハウアーは、個人の幸福にとって最も肝腎なものは「彼自身にとって彼は何者なのか」という問題だと明言している。幸福の根拠を徒らに自己の外部へ求めないという教訓は、必ずしもショーペンハウアーの独創ではなく、古代ギリシアの時代から、多くの優れた思想家によって発せられてきた提言である。但しショーペンハウアーが、自分自身に備わった個性的な資質こそが各自の幸福を構成する最大の要素だと断言するとき、それは古代の賢者たちの見解とは微妙に異質なニュアンスを含んでいることに注意すべきである。古代の賢者たちは、理性によって欲望と感情を統制し、適切な調和を保持することが倫理的な「最高善」の内実であり、それこそが「幸福」という言葉で呼称されるべき状態なのだと繰り返し説いている。こうした考え方は暗黙裡に「矯正」の可能性を肯定している。けれども、ショーペンハウアーは人間の本質に関する「矯正」の可能性に就いては否定的な見解を示している。

 現在と現実の客観的半面は運命の手に握られており、それゆえ変化しうる。いっぽう主観的半面はほかならぬ私たち自身であり、それゆえ本質的に変わらない。したがって、ひとりひとりが送る生涯は、外界からいかなる変化が訪れようとも、終始一貫して同じ特色をもち、同一主題をめぐる一連の変奏曲にもたとえられる。だれひとり、自分の個性を脱することはできない。動物はどんな状況でも、自然がその動物の本質に変更の余地なく定めた狭い領分にとどまり続け、例えば私たちが愛する動物を幸せにしてやろうと努めても、動物の本性と意識の限界ゆえに、たえず狭い範囲内にとどまらざるを得ない。人間についても同じことがいえる。個性によって、そのひとに可能な幸福の範囲はあらかじめ決まっている。特に精神的能力の限界は、高尚なものを享受する能力をしっかりと確定する。(『意志と表象としての世界』第二巻参照)。精神的能力が狭小に限定されていると、外部からどんなに尽力しても、他の人間が彼のためにどんなに骨を折っても、彼がどんなに幸運に恵まれても、ありきたりの半ば獣めいた人間の幸福と快さの程度を上回ることができず、官能的な楽しみ、気楽でにぎやかな家庭生活、高尚とはいいがたい社交、通俗的な暇つぶしに頼りつづけることになる。教育ですら、こうした領分を広げるのに、いくばくかは貢献できても、総じてたいして役に立たない。なぜなら、たとえ青年期に思い違いをすることがあっても、最も高尚で多様性に富み、最も長続きする喜びは、精神的喜びであり、これは主としてもって生まれた力に左右されるからである。(『幸福について』光文社古典新訳文庫 pp.17-18)

 ショーペンハウアーは幸福の多寡に対する人間の肉体的=物質的条件の影響を軽視しない。あらゆる幸福の土台として、彼が理性よりも「健康」の価値を明確に称揚している点に注目されたい。個性の内実に関する彼の悲観的な見解は、宿命の強制力に対する屈服に基づいている。ストア学派の賢者たちは「運命を嘲笑すること」に倫理的な要諦を認めたが、少なくとも生得的な個性の改変に就いては、ショーペンハウアーは楽観的な見通しを抑制している。古代の倫理学は、外在的な条件によって左右されない堅牢な自己の鍛造に重きを置いたが、ショーペンハウアーは寧ろ、個人が外在的な条件によって左右されることの不可能性を論じているように見える。人間は個性に基づいた強力な主観的認識の監獄に繋がれており、純然たる客観的事実の把握は原理的に有り得ない。従って「幸福論」が、各自の個性の差異に関わらず、客観的事実との間に普遍的な相関の法則を持つことは考えられないのである。完全に同一の出来事に逢着しても、個人が享受する精神的な印象は、個性と主観の差異に応じて分裂する。つまり、客観的な幸福という概念は成立せず、個人の禍福を定める致命的な要因は専ら、各自の主観的構造の性質に帰着するのだ。

 私たちが何を幸福とし、何を享受するのかということにとって、主観は、客観とは比べものにならないほど重要である。これは、空腹のときは何を食べても美味しいとか、若者が女神のごとく崇める美女が眼前にいても、老人は何とも思わないとかいうことから、天才や聖者の生き方にいたるまで、事々に確証される。特に健康は、ありとあらゆる外的財宝にまさるもので、ほんとうに健康な乞食は病める国王よりも幸福である。申し分のない健康と恵まれた体質から生まれる、落ち着いた朗らかな気質、明晰で物事を生き生きと鋭く正しく把握する頭脳、節度ある穏やかな意志、ひいては曇りなき良心、こうしたものは、位階も富も取って代わることのできない美点である。(『幸福について』光文社古典新訳文庫 pp.19-20)

 客観的に確認され得る諸々の事象、つまり人々の共有する社会的現実における諸々の可知的な事象は、各自の幸福に関する普遍的な指標とはなり得ない。重要なのは、如何なる状況に置かれているかという外在的な条件ではなく、専らそれらの外在的条件を享受する側の主観的構造の良し悪しである。もっと端的な表現を用いるならば、生得的な個性の良し悪しが禍福の命運を定める最も重要な秘鑰となるのである。そして個性は後天的な努力によって些少の改善を蒙る余地は残しているけれども、原則的には出生の段階で概ね固定されると看做されている。従って我々の主要な実存的課題は、自己の生得的な個性を如何に活用し、それに相応しい生き方を集中的に選択し得るかという点に集約される。無いもの強請りに明け暮れたり、自分の弱点を徹底的に革めようと努力したり、他者の栄誉や財産を羨んだりすることは、相対的な「成功」には寄与するかも知れないが、我々の幸福を増進する根本的な手立てとしては無益である。

 さて個性が劣悪だと、どんな楽しみも、胆汁を含んだ口に美味なワインを流し込むようなものだ。だから良き事も、悪しき事も、大きな災禍はともかく、人生において何に遭遇し、何がその身にふりかかったのかよりも、本人がそれをどう感じたのかが問題であり、何事も感受力の質と程度が問題となる。その人自身に常にそなわっているもの、要するに「その人は何者なのか」ということとその重要性が、幸福安寧の唯一の直接的なものである。それ以外はすべて間接的なものだ。それ以外のすべてがもたらす影響は無に帰することがあっても、「その人は何者なのか」ということがもたらす影響は決して無に帰することがない。だからその人自身に常にそなわっている美点に対する嫉妬は、どんなに入念に包み隠そうとしても、あらゆる嫉妬のなかでもっとも鎮め難いものとなる。(『幸福について』光文社古典新訳文庫 p.29)

 従って、個人の幸福の追求においては、自己の個性を精確に測定し、手の届かないものに憧れたり、他者の表象の裡に描き出された自己の社会的虚像に振り回されたりする愚行を避けねばならない。自己の本性を適切に認識し、大袈裟な誇張や過剰な卑下を省いて、愚かしい夢想に耽溺することを慎まねばならない。自分が何者なのかを知ることは、幸福へ通じる最も賢明な捷径である。我々は往々にして、自己の本性を曲解することによって不毛な苦痛の深淵へ陥る生き物であるからだ。飽くなき情熱に基づいて、あらゆる艱難を超克しようと奮い立つ勇敢な精神は美しく崇高であるが、それが適切な理智によって統御されず、過剰な自信や向こう見ずな鈍感さの帰結に過ぎないのならば、勇敢な精神は無謀な破滅を惹起することに終始するだろう。苛烈な逆境において人間の本性が露わになるという法則は、頻々と取り沙汰される不易の真理である。あらゆる外在的幸福の要因を収奪する途方もない不幸に見舞われたとき、猶も朗らかに現実を受け容れる雄々しく強靭な魂の持ち主は、日頃から禍福を決する最も重要な鍵が、自己自身の個性の裡に潜んでいることを知悉しているのである。「あらゆる点で、何事につけても、彼はなによりもまず彼自身を享受する」(p.28)という命題が真実を穿っているのだとすれば、我々は世界の変革よりも自己の変革を試みる方が遥かに有益であるという事実に、一刻も早く親しむべきであろう。