サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ショーペンハウアー「幸福について」に関する覚書 4

 引き続き、ドイツの哲学者ショーペンハウアーの『幸福について』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 ごく大ざっぱに概観すれば、苦痛と退屈は、人間の幸福にとって二大敵手である。さらに私たちは、この二大敵手のうち、一方からうまく遠ざかっても、もう一方に近づいてしまうと言えよう。その結果、私たちの人生は実際、振り子のように強く、弱く揺れながら、この両者の間を行ったり来たりしている。これは、この二大敵手が互いに二重の対立関係、すなわち、外面的もしくは客観的対立関係と、内面的もしくは主観的対立関係にあることから生じる。外面的には困苦と欠乏が苦痛を招き、これに対して安泰と過剰が退屈を招く。したがって下層階級の人々はたえず困苦と、つまり苦痛と戦い、裕福な上流階級の人々は年中、退屈を敵にまわして、しばしば誠に絶望的な戦いをしている。他方、苦痛と退屈の内面的もしくは主観的な対立は、感度は精神的能力の程度で決まるため、個々人において、苦痛に対する感度と、退屈に対する感度が反比例することに基づく。すなわち精神が鈍いと、全般的に感度も鈍く、それと相まって神経過敏にならず、こうした性質の持ち主は、どんな種類、どんな度合いの苦痛・悲しみに対しても、あまり敏感ではない。

 だが他方、こうした精神の鈍さから、数知れぬ人々の顔に刻まれた、あの内面の空疎さが生じる。何にでも、外界の些事にいたるまで絶えず盛んに関心をもつことからわかってしまう内面の空疎さが、退屈の真の源である。たえず外的刺激を渇望し、なんらかのものによって精神と心情を活動させようとする。したがって手当たり次第、えり好みはしない。こうした人間が手を出す娯楽の低劣さ、社交と談話の流儀をみれば、それがわかる。物見高い野次馬連中は言うにおよばない。主として、内面が空疎なために、あらゆる種類の社交や娯楽、遊興や奢侈への病的欲求が生じ、そのために多くの人が浪費に走り、落ちぶれて貧窮する。こうした誤った道に踏み込まない手立てとして内面の富、精神の富ほど信頼できるものはない。(『幸福について』光文社古典新訳文庫 pp.39-40)

 「苦痛」と「退屈」との対立的な関係に就いてのショーペンハウアーの概説は極めて明快で、万人の魂が容易に嵌まり込んで悶えることになる厄介な陥穽の消息を、見事に照射している。感性が鋭敏であれば歓びも深くなる代わりに、諸々の苦痛への感受性も強まるので、結果として精神的な安寧から遠ざかる懸念が拭えない。他方、感性を鈍麻させた場合には、苦痛への耐久力は高まるものの、代償として「内面の空疎さ」という抑え難い疥癬のような苦しみを齎し、やはり精神的な安逸は損なわれる結果となる。内面的な虚無を免かれる為には「内面の富、精神の富」を蓄えるのが最善の施策であるが、豊饒な感受性の齎す歓びは、同様に齎される苦しみとの間に不可分の紐帯を結んでいる。それゆえに、人間は何れの極点に迫ったとしても、揺るぎない幸福を手に入れることは出来ないのである。

 けれども、何れか一方の立場に優越的な価値を認めなければならないとしたら、ショーペンハウアーは明らかに、愚鈍で不感的な人間よりも、鋭敏な感受性と豊饒な内面の持ち主の方を選択すべきだと判定しているように思われる。個人の内面の豊かさは、その人間の属する世界の豊かさの直接的な根拠であるから、それが貧弱であったり無味乾燥であったりする人生は、ショーペンハウアーの綜合的な論旨に照らしても、虚しく厭わしいものであると言わざるを得ない。「あらゆる点で、何事につけても、彼はなによりもまず彼自身を享受する」(p.28)という原則に従うならば、退屈な自己と鋭敏な自己の何れを選んだ方が、充実した人生の恩寵に与り易いかは鮮明であろう。既に著述の冒頭において彼は、資産や名声よりも「自分自身が何者であるか」という問題が遥かに人生の幸福に対して巨大な影響を及ぼすものであることを宣告している。

 さて、ここで述べたことは、もっとも鈍い愚か者から、もっとも偉大な天才にいたるまで、広範囲にすきまなく並ぶあらゆる中間段階に、それぞれ相対的にあてはまる。そのため、だれもが客観的にも主観的にも人生の苦悩のいっぽうの源泉に近づけば近づくほど、他方の源泉からは離れてゆく。したがってこの点では、だれもが客観を主観にできるだけ適合させようとする本能的傾向に導かれるであろう。すなわち、苦悩の源泉のうち、自分がより苦しいと感じる源泉に対して、より徹底した予防措置をとる。才知豊かな人は、苦痛や手ひどく扱われることを避け、静寂と閑暇を求める。そのため静かでつつましやかな、できる限りだれからも邪魔されない生活を求め、したがって、いわゆる世間と多少おつき合いした後、隠棲することを選ぶ。それどころか偉大なる知者は孤独を選ぶだろう。というのも、その人自身に常にそなわっているものが多ければ多いほど、外部のものをますます必要としなくなり、他者はますます重きをなさなくなるからである。それゆえ卓越した精神の持ち主は非社交的になる。社交の質が社交の量で埋め合わせることができるなら、華やかな社交界で生きていくのも甲斐あることだろうが、残念ながら愚者が百人束になっても、賢人ひとりにおよばない。

 これに対して、もうひとつの極点に立つ人間は、困苦からほっと一息つけるようになると、是が非でも気晴らしや社交を求め、なによりもまず自分から逃れたい一心で、どんなものにも、たやすく甘んじる。なぜなら、だれもが自分自身に立ち返る孤独のなかでは、その人自身に常にそなわっているものが正体を現わすからである。愚者は王侯貴族のまとう緋色の衣に身を包んでも、自分のみすぼらしい個性の重荷を振り落とすことができず、ため息をつく。(『幸福について』光文社古典新訳文庫 pp.41-43)

 他者との繋がりを求める欲望の根底には、自己自身の内面的な貧困と虚無が関与しているという分析は、聊か極端な見解のようにも思われるが、依存的な性質の人間が、自らの内面的な欠乏を補填する為に、他者との間に強力な固着的関係の構築を求める場合があることは経験的にも理解し得ることである。また、自己自身の内面的な貧困や虚無から逃走する為に、様々な享楽が利用されるということも周知の事実である。言い換えれば、多くの享楽が齎す強烈な興奮や陶酔は、自己自身の実相を直視せずに忘却する為の重要で破滅的な伴侶なのである。

 自己自身の内面的な空虚が扼殺し難いものであるとき、人間は社交も含めた諸々の享楽に向かって必死で遁走する。彼らが孤独を厭うのは、孤独が自己の内面的な空虚を最も尖鋭な表現を以て明瞭に告示するからである。孤独を愛する為には、自己自身に対する適切な愛着が欠かせない。自己の実相が自己自身にとって堪え難いほどに貧しいとき、人間は自己に対する憎悪に駆られて、諸々の破滅的な悪徳や乱行の裡へ邁進するのである。自己が自己自身によって充たされ、癒されるようにならない限り、我々は多かれ少なかれ、他者や物質といった外在的な要素に頼り、それらを通じて自己の内在的な欠乏を解決しようと試みる傾向を棄却し得ない。

 頭脳が身体全体の食客や年金受領者のような地位に立つことを考え合わせると、各人が努力して獲得した自由な閑暇は、自己の意識と個性を自在に楽しませてくれるものなので、苦労だらけの現実生活全体の成果・収穫物ということになる。だが自由な閑暇は、大部分の人に何をもたらすのだろうか。暇つぶしになる官能的な楽しみや愚行がないと、たちまち退屈し、ぼんやりと過ごす。かれらの閑暇の過ごし方をみれば、閑暇がまったく無価値なのが分かる。これこそ、まさにアリオストの言う「無知な人々の無為退屈」である。凡人はただ時を「過ごす」ことだけを考え、なんらかの才能のある人は、時を「活用する」ことを考える。低級な頭脳の持ち主が退屈を大いにもてあますのは、かれらの頭脳が徹頭徹尾、意志を動かす「動機の媒体」以外の何ものでもないからである。(『幸福について』光文社古典新訳文庫 p.44)

 「小人閑居して不善を為す」という中国の古言は、こうした消息を見事に言い当てている。「自由な閑暇」とは即ち「孤独の時間」であり、自己自身の本性が最も露わになる局面である。古代ローマの賢者セネカが「生の短さについて」で手厳しく批判したように、愚者は「自由な閑暇」を無益に空費する。そして末期が迫ってから俄かに慌てふためき、自己の無為な生涯を慨嘆する。諸々の享楽は、こうした「自由な閑暇」を食い潰し、破壊する為の最も有効な手段である。享楽への耽溺と依存は、当人の内面的貧困の歴然たる証明なのだ。