サラダ坊主日記

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ショーペンハウアー「幸福について」に関する覚書 8

 十九世紀ドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーの『幸福について』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 私はあらゆる生きる知恵の最高原則は、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』でさりげなく表明した文言「賢者は快楽を求めず、苦痛なきを求める」だと考える。ラテン語版の文章だと締りがなく、ぱっとしないが、分かりやすく言うと、「思慮分別のある人は快楽ではなく、苦痛なきにしたがう」、あるいは「思慮分別のある人は快楽ではなく、苦痛なきをめざす」。この命題の真理は、あらゆる享楽と幸福が消極的性質を持つのに対して、苦痛は積極的性質を持つという点に基づく。私は主著『意志と表象としての世界』第一巻第五八節で、この命題を詳しく説明し、根拠づけておいた。しかし、ここでは日々観察されうる事実で説明したい。身体全体は健康で無事でも、どこかに小さな傷や痛む箇所があると、身体全体の健康は意識にのぼらず、たえず負傷した箇所の痛みに注意が向き、生きているという実感から快感が失われる。これとまったく同様に、万事が思い通りなのに、ただひとつ意に反することがあると、それが些細なことであっても、その一つのことがたえず頭に浮かび、頻繁にそのことを考え、それ以外の、もっと大切な、思い通りにいっている事柄はほとんど考えない。

 ところで、この二つのケースにおいて、どちらも侵害を受けるのは意志である。いっぽうは生体における意志であり、他方は人間の努力という形で客体化された意志である。どちらの場合も、意志の充足はいつも消極的・否定的にしか作用しないので、直接的にはまったく感じられず、省察という道を経て意識されるのが精一杯であることがわかる。これに対して、意志の抑制は積極的なものなので、人の意識にのぼってくる。あらゆる享楽の実質は単に、意志の抑制がなくなること、意志の抑制から解放されることであり、したがって短い間しか続かない。(『幸福について』光文社古典新訳文庫 pp.190-191)

 人間は環境に適応する生き物であり、往々にして適応は優れた忘却の能力によって齎される。古来、大切なものの価値は、失われて初めて意識に映じると言われてきたが、幸福が消極的な性質を有するとは、このような消息を指し示す命題であると考えられる。逆に苦痛は積極的なものであり、実体を持ち、それ自体で濃密な存在感を人間の精神に打刻する。言い換えれば、幸福とは「苦痛の欠如」という形式でしか実感されないものであり、自分が幸福であることを理解する為には厳密な省察を経由する必要があるのである。そして享楽は、それが如何に劇しいものであっても、必ず「苦痛の解消」という過程を通じて顕現し、主観によって感受される。如何に強烈な快楽であっても、それが持続すれば早晩「耐性」が生じ、快楽の実感が稀釈されていくという事実は、人間の忘却と適応力の歴然たる証明を成している。それゆえに快楽の強化は、苦痛の解消された状態を再び苦痛として定義するという倒錯的な過程を踏んで実行される。かつて快楽であった状態も、時間の経過に従って、その積極的性質は霧消し、より大きな快楽の欠如した状態として再定義され、苦痛の原因に転じる。このような経緯が、強靭な心身の構造によって堪え抜かれる限り、享楽への貪婪な欲望は無限に亢進し、その螺旋状の循環は未来永劫に亘って維持される。この無窮の動向は理論上、当事者の生命が破滅に至るまで熄むことがない。

 苦痛の欠如は、我々を退屈させる。苦痛が除去された後では、苦痛が解消へ向かう過程で分泌される享楽の経験を味わうことは最早不可能であるからだ。この退屈に堪え得る「知的生活」の歓びを知らない者は止むを得ず、退屈を破壊する為の更に強烈な快楽へ手を伸ばし、耽溺する。そこから享楽的な無窮の欲望が始まる。この度し難いほどに横暴な根源的欲望は、生命体を駆動する最も原始的な情熱であり、ショーペンハウアーの用語に当て嵌めるならば「意志」ということになる。彼の思惟に従えば「享楽」とは要するに「意志の抑制がなくなること」であり、絶えず「快楽」を希求する「意志」の旺盛な活動は、底知れぬ貪婪さを最大の特質としている。一つの苦痛から解放されただけでは「意志」は満足しない。その度し難い貪欲な要求の強度は刻々と増大し、更なる快楽の確保を目指して自ら苦痛を惹起することさえ辞さない。

 さて、先ほど称賛したアリストテレスの規範は、これを基礎としている。アリストテレスの規範は、人生の享楽や気楽さに注目するのではなく、できるだけ人生の無数の災厄から逃れることに注目すべきだと教示する。この方法が正しくないとしたら、「幸福は夢まぼろしにすぎず、苦痛こそ現実だ」というヴォルテール箴言も間違いということになってしまうが、実際には真実である。したがって、幸福論的な見方に立って人生の総決算を引き出そうとするなら、自分が味わった喜びではなく、自分がのがれた災厄を基準として考量すべきだ。幸福論は、幸福論という名称そのものがいわば粉飾した表現であり、「幸せな人生」とは、「あまり不幸せではない人生」、すなわち「まずまずの人生」であると解すべきだという教えから始めねばならない。もともと人生とは、楽しむべきものではなく、克服されねばならぬもの、どうにかやり遂げねばならぬものである。(『幸福について』光文社古典新訳文庫 pp.191-192)

 ショーペンハウアーの見解を要約すれば「快楽の実体化」は紛れもない謬見に他ならないということになる。それは飽く迄も「苦痛の欠如」という形式で顕現する状態であり、それ自体で独立的に存在する経験であるとは言えない。快楽への欲求は、厳密には「苦痛からの解放」を希求する衝迫である。それゆえ「苦痛」の終息によって穏やかな至福の状態が齎されれば、つまり「快楽」の状態へ移行することに成功すれば、そうした欲求もまた終息しなければならない。しかし人間の根源に存在する「意志」の要求は劇しく無窮であり、如何なる快楽に遭遇しても持続的な満足を覚えることが出来ない。また苦痛というものは極めて多様で厖大であり、一つの苦痛が癒されたとしても、それで不朽の安寧が約束されることは有り得ない。それゆえに「意志」の貪婪な活動は束の間の均衡を破って再開され、無限の輪廻は決して終息を知ることがない。「快楽」は「苦痛」が解除される過程で顕現する暫時の幻影であり、他方「苦痛」は無数の方策を以て我々の心身を責め苛む酷薄な現実である。「快楽」は「苦痛からの解放」という不可能な夢想に対する憧憬の偶像に過ぎない。「苦痛」を経由しない「快楽」は原理的に存在しないのである。

 ショーペンハウアーが「知的生活」の恩恵を強調する背景には、我々の経験する現実的な快楽が、悉く「苦痛」の裡に自らの根拠と淵源を有しているという悲観的現実への省察が関与している。この場合の「快苦」は総て「意志」の活動に附随する現象である。優れた知性は、このような「意志」の活動から限定的な脱却を勝ち得る力を宿している。「意志」の活動の終息した状態は一般に人間の精神に対して堪え難い「倦怠」を齎すが、その「倦怠」を埋め合わせるのに最も適した知性的な愉楽の数々は、貪婪な「意志」とは異質な働きであり、それゆえに実体的な苦痛を免かれている。純然たる「認識」は、貪婪な「意志」の活動から一定の独立性を保持している。通例「意志」の苛烈な欲求に従って「認識」に関する諸機能は悲愴な労役に明け暮れるものだが、発達した「知性」は「意志」の与り知らぬ領域において、独自の関心を追究する余力を有している。この純然たる「認識」を通じて得られる快楽は「苦痛からの解放」という機序を経由せず、従ってその快楽の追究の過程において、新たなる苦痛の関与が要請されることもない。「認識」における貪婪な欲望は、一般的な「意志」における欲望とは異なり、事前の「苦痛」を要求しないのである。それゆえ「精神的欲求」は如何なる苦痛とも相関せずに、幾らでも自らの貪婪な性質を愉しみ、活用することが出来る。それは「意志」の立場から眺めるならば虚妄の幸福に過ぎないかも知れない。しかし、そのような「非意志的欲望」の充足に伴う快楽を賞味する特権は、人間という種族に限って享受することの出来る稀有の至宝なのである。