サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

詩作 「長野駅、二十一時半」

夢から覚めるように
列車がゆっくりと砂浜へ打ち上げられ
眠い眼を擦って
私は立ち上がる
網棚から引きずりおろした革の鞄を翻して
私は静かな時刻の片隅へ足を踏み入れる
澱んだ心 答え 正解 事実 不穏な予兆
駅前は広々とした閑寂の中で時間をかぞえていた
私はどこへ行こうとしているのか
私の脱け殻はどこで主の帰りを待っているのか

もう金輪際 顔も見たくないわ
我ながら景気のいい捨てゼリフだったと思う
ピンヒールは家出には向いていない
どんな生ぬるい休息も拒むかくごで
本当はあのドアを閉めるべきだったのに

古びた家までの道順は
知らない訳がない
生まれ育ったゆりかごの奥底へ
三十手前の女が舞い戻ろうとしているのだ
無様だと笑われたってしかたないけれど
許されぬ罪がありうる そう言い張りたい気分なのだ
私はもうじゅうぶんに堪え抜いてきた
これからもじゅうぶんに堪え抜けと命じる資格は誰にもない
誰にも認めない
私はまっさらに戻っていた
あの男の顔色はいつも蒼白く
唇はいつも暗い紫色だった

長野電鉄の地下ホーム
ここにも生ぬるい風が溜まっている
水路を辿るように
私は夢の名残を忘れようとしている
そもそも何故好きになったのか
その理由をきちんと書き留めておくべきだった
その手間を惜しんだせいで
今ではこの十年間の意味さえ思い返せなくなっているのだ
擦り切れた手帳に 指あとのような恋愛の残滓
恋愛? そんなものに 何か価値があると信じていたことが
大いなる過ちだったのだ

地の最果てへ向かうように
私はA特急に乗り込んだ
溜息のような振動に心まで揺さぶられながら
誰でも人間は一つや二つ 脛に傷があるという
それくらいなら悔やまなくて済むからいい
背骨が折れたようなこの遣る瀬なさを
一体誰と分かち合えばいいというのだろうか

小布施の駅で列車を降りた
吹き抜ける秋の風は刺すようにつめたい
私は私自身の影とふたりきりで
闇に溶けた駅舎の外でタバコを吸った
あの人は男のくせに
酒もタバコもほとんどやらない
ただ ひたすらにだらしなく優しくて
女の頼みは断れないのだ
誰にでも与えられる優しさを
安物だと嫌うのは
余りに資本主義的過ぎるだろうか?

実家の方角へ
暗い夜道をたどりながら
私はいくつもの曲がり角を思いかえす
過ぎ去ってしまった いくつもの儚げな微笑みの柱
私たちは手遅れの罪を
背負い切れぬほどに数多く
積み重ねて生きている
あの人は男のくせに
仕事も出来ないし頭も悪かった
ただ 切子細工のように透き通った
淡い茶色の瞳で
夕暮れのように私の顔を見つめるだけの人だった

私たちはいつでも影法師のように
たがいの暗い部分を貪りあい
薄められた血液のような涙を流して
別れの刻限を探っていたのだ
終わってしまった関係に捧げられた漆黒の位牌
肌寒い秋のさなかの故郷で
私はもう一度 私自身に出逢おうとして夢を描いた
その片鱗が
糸の切れた凧のように
視界の涯へ
かすれていくまで