サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Ecstasy and Nihilism 三島由紀夫「ラディゲの死」 2

 引き続き、三島由紀夫の短篇小説「ラディゲの死」(『ラディゲの死』新潮文庫)に就いて書く。

 三島由紀夫の作品において繰り返し言及され、強調される「行為」という概念は、単なる諸々の行動を包摂するものではなく、恐らくは「生命」と引き換えに敢行される特権的で一回的な行動を指す言葉であると推測される。直接的に「生命」を破滅させる行動ではなくとも、それに匹敵する何らかの抑圧的な理由が、三島的な「行為」の実現には不可欠である。例えば「憂国」における武山中尉夫妻の苛烈な心中は、蹶起した戦友を討伐しなければならないという倫理的矛盾に強いられて行なわれる。無論、中尉は軍令に従って粛々と賊軍の鎮圧に励むことも可能な立場であったが、それは彼の内なる道徳的規範に抵触する選択肢であり、従って彼にとって「自刃」は、俄かに巻き起こった倫理的矛盾を打開する唯一の方途として、殆ど「宿命」のように到来した道程である。言い換えれば、彼の「自刃」には正当で廉潔な「大義」が賦与されている。彼は決して恣意的な決断の結果として「自刃」を選んだのではなく、飽く迄も避け難い「宿命」を引き受けるという体裁で割腹したのである。

 これはつかのまのふしぎな幻想に中尉を運んだ。戦場の孤独な死と目の前の美しい妻と、この二つの次元に足をかけて、ありえようのない二つの共在を具現して、今自分が死のうとしているというこの感覚には、言いしれぬ甘美なものがあった。これこそは至福というものではあるまいかと思われる。妻の美しい目に自分の死の刻々を看取られるのは、香りの高い微風に吹かれながら死に就くようなものである。そこでは何かが宥されている。何かわからないが、余人の知らぬ境地で、ほかの誰にも許されない境地がゆるされている。中尉は目の前の花嫁のような白無垢の美しい妻の姿に、自分が愛しそれに身を捧げてきた皇室や国家や軍旗や、それらすべての花やいだ幻を見るような気がした。それらは目の前の妻と等しく、どこからでも、どんな遠くからでも、たえず清らかな目を放って、自分を見詰めていてくれる存在だった。(「憂国」『花ざかりの森・憂国新潮文庫 p.248)

 このパセティックな叙述を通じて浮き彫りにされている特異な主観的構造は、「皇室」「国家」「軍旗」「白無垢の美しい妻」といった諸々の観念を「絶対的価値」という共通の基軸で包括している。彼は神秘主義的な「忘我」(ecstasy)の渦中にあり、自らの肉体を滅ぼすことによって超越的な絶対者との融合を遂げようとしている。三島的な「行為」が、その実現の代償として「生命」の供犠を要求するのは、絶対者との神秘的な合一を果たす上で「自己の消滅」という過程が不可欠であるからだと考えられる。単なる厭世的な自殺は、絶対者に対する拝跪を欠いている為に、三島的な「行為」の要件を充たすことが出来ない。「行為」は、広義の「殉教」と同義でなければならない。実存的な苦痛の解消を目的とした自殺は、寧ろ絶対的価値に対する虚無的な不信に基づいているのである。更に重要なことは、こうした「殉教」における「忘我」の状態が「至福」という観念と緊密に結合している点に存する。「殉教」における心身の破滅は、一般的には明確な「不幸」として扱われているが、例えば武山中尉は明らかに「宿命」によって強いられた夭折を「恩寵」と捉えている。個体的な「生命」と引き換えに購われる「忘我」は、三島が終生希求し続けた崇高な「至福」の様式である。自己の解体を通じて、何らかの絶対的価値との合一を遂げること、こうした神秘主義的な幸福への欲望は、三島の生涯を貫く重要な精神的系譜の一つなのだ。

 「ラディゲの死」もまた、神秘主義的な系譜に属する作品であると考えられる。ラディゲは溢れんばかりの芸術的才能と引き換えに、若年にして病死の運命に見舞われた。ニヒリストならば、個人の天稟と病患との間に如何なる必然的な相関も認めないだろう。けれども「ラディゲの死」という短篇を構成する中心的視座は、レイモン・ラディゲの夭折という客観的な事実に対して特権的な意義を読み取ろうとする方針を鮮明にしている。

「ラディゲが生きているあいだというもの……」とコクトオは呟いた。「……僕たちは奇蹟と一緒に住んでいた。僕は奇蹟の現前のふしぎな作用で、世界と仲良しになった。世界の秩序がうまく運んでいるように思われた。奇蹟自体にはひとつも気づかずに、薔薇が突然歌い出しても、朝の食卓に天使が堕ちて来ても、鏡の中から、水のきらきらする破片を棘のように体中に刺されて、潜水夫がよろめき出て来ても、馬が大理石の庭にその蹄の先で四行詩を書き出しても、当然のことのように、すこしもおどろかずに見ていられたのだった。そんなことは、当り前のことのように、僕たちには思われていた。僕は『奇蹟』と一緒によく旅行に出た。『奇蹟』は何と日常的な面構えをしていたろう! ……しかし今になってみると、朝の新聞が、自動車事故で五人家族が一どきに死んだり、建築中の建物が倒壊したり、飛行機が落ちたりしたことを、告げているのを見るたびに、僕はもしラディゲが生きていたら、こんなことは決して起るまい、と思わずにはいられないんだ。天の歯車が飛び立ってしまったから、世界という機械はぶざまな動き方をするようになった。貨車は脱線し、雞は車道へ飛び出し、パン屋はいくらパン粉をこねまわしても、ふくらまないパンしか作れないんだ」(「ラディゲの死」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.313-314)

 この哀切な告白の根底に、コクトーのラディゲに対する熱烈な愛情が息衝いていることは言うまでもない。彼にとってラディゲの存在は、世界の「中心」或いは「天蓋」を成すものであったに違いない。ラディゲの氾濫する才能、それを支える独創的な人格は、彼を凡百の俗人から隔て、天上的な位階に列している。ラディゲが人間の肉体を備えて「日常的な面構え」を帯びていることは、それ自体が有り得ない「奇蹟」に他ならないのである。彼には、地上へ降臨した美しい天使のイマージュが相応しい。

 地上的な人間が「忘我」即ち自己の解体を通じて絶対的価値と合一するという秘教的な神話が、三島のオブセッションであるならば、この「ラディゲの死」という作品における彼の代弁者は明らかにジャン・コクトーである。そして崇高で超越的な「絶対的価値」を具現するのは、奇蹟の如き天稟に恵まれたレイモン・ラディゲである。従って、この作品がコクトーの視点から語られ、構成されるのは必然的な帰結である。小説家は諸々のエピファニックな「美」を描き出すが、当人が「美」そのものを己の裡に体現する訳ではない。彼らは手の届かない「美」に憧れ、両者の懸隔に苦しみながら、それを作品という檻の裡に捕縛しようと躍起になる。尤も晩年の三島は、そのような芸術的実存に慊らない想いを懐き、自らの存在を一個の「美」或いは「絶対的価値」へ昇華させることを目論んだのではないかと思われる。

「君のいうことはよくわかる」とジャコブは持前の甲高い声で言った。「君はラディゲを生粋の無秩序と認めていた。歌うべからざる薔薇が歌い出すような無秩序だ。君がラディゲの死を、地上的な原因に帰したがらない気持はわかる。しかし君と『奇蹟』との生活には、しらない間に地上の雑な秩序がまぎれ込んでくるような気がした筈だ。君は、といおうか、君たちは、といおうか、これに必死に対抗するために無秩序そのもののような生活を固執していたね。なるほどおかげで、地上の秩序はラディゲを殺さなかった。しかし天がラディゲを殺そうとしているのに君たち自身も手を貸したのを君も認めないわけにはゆくまい」(「ラディゲの死」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.314-315)

 地上の秩序、卑俗な人間的秩序の対義語として、天上的な「無秩序」の概念が存在する。何より退屈な「日常性」の鋼鉄の如き堅牢な性質から、ラディゲの独創的な天稟を保護すること、それがコクトーの主たる野心であったに違いない。ラディゲは受肉した神の御子であり、その芸術的天稟は、彼が一切の地上的秩序から逸脱しているという事実によって保証されている。コクトーのラディゲに対する苛烈な愛情は、恐らく神秘主義的な熱意を豊富に含んでいるのである。

ラディゲの死 (新潮文庫)