サラダ坊主日記

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アリストテレス「ニコマコス倫理学」に関する覚書 1

 古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『ニコマコス倫理学』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 プラトンの開創したアカデメイアで、概ね二十年に及ぶ学究としての研鑽の生活を送ったアリストテレスは、古来「万学の祖」と崇められ、西洋の思想や文化に決定的な影響を与えた。彼の思索と研究の対象は極めて広範な領域に亘り、形而上学から生物学、芸術に至るまで、あらゆる分野に関して厖大な業績を遺した。

 「ニコマコス倫理学」と題された大部の集成は、現代でも倫理学における最も重要で基礎的な典籍として、旺盛な研究の対象に据えられている。アリストテレス古代ギリシアの様々な思想を受け継ぎながら、人間の在るべき姿、理想的な生き方に就いて綿密な考究を重ねた。その読解は決して容易ではないが、私の力の及ぶ限りで拙劣な評釈を試み、自らの人生に活かしていきたいと思う。

 どのような技術も研究も、そして同様にしてどのような行為も選択も、なんらかの善を目指しているように思われる。それゆえ、善はあらゆるものが目指すものであるとする人々の主張はすぐれていたのである。

 しかし、これらの目的のあいだに或る種の相違があることは明らかである。実際、活動[そのもの]を目的とするものもあれば、活動とは別になんらかの成果を目的とするものもある。そして行為とは別の何かが目的であるような場合には、活動よりもその成果のほうが善いのが自然である。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 p.22)

 アリストテレスは、諸々の「目的」を連鎖的な系列として捉え、その系列が最終的に行き着く究極の「目的」としての「善」に就いて考察することの重要性に向かって、読者の注意を促している(但し「ニコマコス倫理学」は、アリストテレスが自ら開創した学園「リュケイオン」における講義の為に準備された草稿の集成であって、書籍の形で一般に頒布されることを前提とした記述の体裁にはなっていない)。殆どの行為や活動は、それ自体が「目的」とされるのではなく、他の何らかの成果を喚起する為の手段として位置付けられている。局面を限定して事態を眺める限りでは「目的」と看做される行為や活動であっても、大局的に眺めれば、より上位の「目的」へ到達する為の暫定的な指標に過ぎない場合が殆どである。そのように「目的」の連鎖的な系列を辿り続けた結果として最終的に到達する地点は、それ自体が「目的」であるような行為や活動であり、そうした「目的」は他の如何なる行為や活動にも奉仕しない。このように、それ自体が「目的」であるような行為や活動こそ、アリストテレスによって「善」或いは「最高善」と呼ばれる人間の理想的な境涯であると考えられる。「善」は、地上に存在する多様な「目的」の総てを包括する究極的な指標であり、あらゆる「目的」の上位に君臨する絶対的価値である。

 しかし「善」という抽象的な観念の内実に関して、人々の意見は必ずしも合致していない。何らかの究極的な目標を「善」と呼び習わすこと自体は、余り劇しい論争の的とはならないが、その「善」の内実に関する具体的な規定に就いては、様々な議論が交わされている。一般に「善」という理念は「幸福」という観念と密接に結び付いており、その「幸福」の内実に就いては多様な見解が世上に流通している。

 しかし、幸福について、それは実のところ何であるのかという問題になると、人々は言い争い、一般大衆の説明は賢い人々と同じにはならない。一部の人々は、たとえば快楽や富や名誉のように、だれの目にも明白な、はっきりとした事柄を幸福として挙げる。しかし、人によって挙げる事柄は異なっており、しかも同じ人が別の事柄を挙げることもよくある。実際、人は病気になったときには「健康」を挙げ、貧しいときには「富」を挙げるのである。そして、人々は自分たちの無知を自覚したとき、自分たちの理解を越えた、何かとても大きなことを語る人たちに、驚嘆するのである。また一部の人々は、そうした多くのよいものとは別に、それ自体で存在する何かよいものがあり、そしてそれは、[それ自体だけでなく]それら多くのものすべてがよいことの原因となっていると考えている。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.34-35)

 「幸福」という観念を主観的で内在的なものとして遇する限り、人々の意見が多様な分裂を示すのは必然的な帰結である。「私は何を幸福と看做すか」という問題の答えに普遍性を求めず、専ら内在的な観点から答えることが正しいと考えられる限り、人類に共通する理念としての「幸福」は、実体的な規定を喪失するだろう。単に各自が探し求める対象の総称が「幸福」であると定義するならば、その具体的な内実を一義的に指定することは出来ず、極端に言えば「幸福」という名辞そのものには如何なる固有の意義も認められなくなる。つまり「幸福とは何か」という設問自体の価値が失効してしまうのである。「幸福」という観念は一つの純然たる虚無的な記号のように、固有の含意を剥奪され、単に「人々が探し求める対象」という事物の外郭に関する定義だけを辛うじて保持することとなる。これは「幸福」の定義に関する極めて相対主義的な思惟の様態である。このような思惟の様態を採用した場合、我々は「人類」という包括的な範疇に基づいて「幸福」の一般的性質を論じることを禁じられてしまう。「幸福とは究極の目的である」という命題を超える具体的な見解を開陳することは不可能になる。

 このような状態を看過する限り、我々は「幸福」の実質に関する普遍的な考究を断念せざるを得ない。人生における「究極の目的」とは何かという重大な問題に就いても、各自の主観的な信仰が結論の総てを占めることとなる。言い換えれば、我々が「幸福」という理念の普遍的な実質に就いて、一定の強度を備えた見解に到達したいと望むならば、先ず「幸福」を純然たる主観的=内在的信仰の問題に還元する態度を棄却せねばならない。「幸福」の客観的な法則性を見出す為には、一般に幸福な状態と看做される諸々の事象を外面的に観察し、その構造や秩序を分析してみなければならない。

 話が横道にそれたところにもどって、改めて論じることにしよう。一般大衆、すなわちもっとも粗野な人々は、善や幸福とは快楽のことだと理解しているように思われるが、かれらの生活からすれば、それは理由のないことではない。そうであるからこそ、かれらは「享楽的な生活」を好んでいるのである。つまり、もっとも主要な生活の形態は三つあり、今述べられている享楽的な生活と、「政治的な生活」と、第三として「観想的な生活」である。一般大衆は家畜が送るような生活を選んでいて、まさに奴隷のようだが、権力のある地位にいる人々の多くが[享楽に耽った王の]サルダナパロスと同じような心持ちになってしまうことからすれば、一般大衆にも理由はあるのである。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 p.38)

 古代ギリシアにおける倫理学的考察の伝統は、一般に「主知主義」の思潮に基づいている。往古の先賢たちは一様に、人間的な幸福の要件を論じるに際し、人間に固有の要素を幸福の基礎に挙げる慣例を遵奉している。人間に固有の特徴として認められるのは一般に「理智」の働きであり、感情や欲望に就いては動物と共通する原始的な性質であると判定され、往々にして貶下されることが多い。快楽を最高善と同一視する「享楽的な生活」は正に、こうした原始的性向への隷属の典型であると看做されている。それゆえ「享楽的な生活」は人間的な幸福、つまり人間という種族に固有の幸福としては認められず、寧ろ人間的幸福の実現に対する障碍として排斥されるのである。「享楽的な生活」の抱える弊害に就いては、プラトンエピクロスからショーペンハウアーに至るまで、多くの先賢が詳細な論及を行なっているので、是非とも参照して頂きたい。

 他方で、立派で行動力のある人々は、名誉が善や幸福だと理解しているように思われる。というのも、政治的な生活の目的は、おおよそこの名誉だからである。しかし名誉は、[われわれが]探し求めているものと比べると、まだあまりに表面的なものにみえる。というのも、名誉は、それが与えられる側の人々よりも、それを与える側の人々に、いっそう依っているように思えるが、われわれの予感によれば、善というものは、それをもつ人に固有な何かであり、その人から奪い取りがたいものだからである。さらにまた、[立派で行動力のある人々が]名誉を追求するのは、自分が善い人間であると確信したいためであるようにも思える。いずれにせよ、かれらは、自分のことをよく知る人々のあいだで、思慮深い人々から、自分の徳を理由にして名誉が与えられることを欲しているのである。それゆえ、少なくともかれらとしては、徳のほうが名誉よりもよいもののはずである。そこで、おそらく人は、[名誉よりも]徳のほうこそが、政治的な生活の目的だと思うことだろう。しかし、明らかに、これも[目的として]完璧とはいえない。というのも、人は徳をもちながら、眠ったり何もせずに人生を過ごしたりすることがありうるのだし、それに加えて、最悪の苦境に陥ったり最大の不運に見舞われたりすることもまたありうると思われるからである。或る種の立場を擁護するのでなければ、このように生きている人をだれも幸福とは呼ばないだろう。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.39-40)

 アリストテレスは「幸福」の秘鑰としての「徳」の意義を充分に知悉している。但し、それだけでは人間の幸福を確約するには足りないと、彼は考えているように思われる。師父であるプラトンの議論においては専ら、理性的認識を通じて事物の「実有」(idea)を把握することに「最高善」の根拠が求められたが、その高踏的な学説に比べると、アリストテレスの議論は遥かに実践的でリアリスティックな性質を有している(尤も、アリストテレスも「観想的な生活」に特別な価値を認めている点では、師父の衣鉢を直截に継いでいると言える)。恐らくアリストテレスにとって、潜在的な「徳」は「幸福」の同義語としては不充分であり、「徳」が実際の具体的な行動を通じて、四囲の現実の裡に展開され、表出されなければ、真の「幸福」へ達することは出来ないのである。彼は「徳」を個人の内部に根差した揺るぎない性質として定義することに同意し、例えば「名誉」の如き他律的な事象に「幸福」の源泉を求めることの危険性を明瞭に意識しているが、純然たる内在性としての「徳」に満足する態度に就いては批判的である。「徳」は潜在的なものに留まらず、明確な行動を通じて現実化しなければならないというのが、アリストテレスの基本的な主張なのである。

ニコマコス倫理学(上) (光文社古典新訳文庫)