サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

アリストテレス「ニコマコス倫理学」に関する覚書 2

 古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『ニコマコス倫理学』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 「ニコマコス倫理学」の序盤には、アリストテレスによる師父プラトンへの批判的な言及が記されている。

 ここでわれわれは、普遍としての善を考察し、それがどのような意味で語られるのかという問題に立ち入るのがよいだろう。ただ、イデアを導入したのがわれわれの親しい人々なので、こうした探究は気乗りしにくいものではある。しかし、おそらく、真理を救い守るためには、われわれに非常になじみのものであっても破棄したほうがよいのであり、またそうすべきだと思われる。とりわけ知恵を愛する哲学者であるならばそうである。真理と友のどちらも愛すべきであるが、真理のほうをより尊重するのが敬虔なことなのである。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 p.42)

 「普遍としての善」とは要するに、古代ギリシア最大の哲学者であるプラトンが最も重視した「善のイデア」を指す表現であり、それは人々が「善い」という言葉を用いて意味している総ての事物に共通する抽象的な本質のことである。尤も、プラトンは「イデア」(idea)という概念を単なる人為的で観念的な仮構として捉えるのではなく、寧ろ感覚的で生成的な「現象」(appearance)に先立って普遍的に存在する「実有」(ousia)として定義し、個物よりも先験的な仕方で、実体として存在すると考えていた。我々が感官を通じて受け取る諸々の経験的な事物は、普遍的な仕方で存在する「実有」の不完全な模倣に過ぎないというのが、プラトンの考想の核心を成す命題である。そして、プラトンの精密な認識論においては、純然たる「本質」としての「実有」は、偶有的な要素を帯びた個物としての「仮有」と対比され、峻別され、尚且つその根源的で絶対的な優越性を認められている。プラトンは理性的認識を「実有」と、感性的認識を「仮有」と結び付け、感覚の裡に生じる諸々の認識は幻想的な仮象に過ぎず、事物の実相を反映するものではないと断定した。個別的な「善」を集めて、そこから思考を通じて事後的に抽出されるものが「善」の本質であると看做すのは通俗的な考え方だが、プラトンの特異な独創性は、寧ろ「善」の本質こそが森羅万象に先行するのであり、個別的な「善」は、そうした普遍的な「善」を分有することによって、普遍性の裡から析出されるのだと看做したのである。個物の集合から事後的に「普遍」が見出されるのではなく、寧ろ「普遍」こそが万物の「始原」(arkhe)なのだと考えるところに、プラトニズムの最も重要な特徴が宿っているのである。

 しかし、倫理学に関する諸々の探究を実践的な学問として位置付けるアリストテレスの立場から眺めれば、こうしたプラトンの論理は非現実的な性質を帯びていると判定せざるを得ない。普遍的な「真理」を闡明する為には、普遍的な「叡智」に基づいて揺るぎない認識を駆使することが不可欠だが、個別的な「真理」に就いては、普遍的な「叡智」を重んじて感性的認識を排斥するような方法では、何一つ具体的な事実を捉えることが出来ないからである。

 この考え方を導入した人たちは、前後関係が語られるものについてはイデアを立てず、それゆえ、かれらは数のイデアも設定しなかった。さて、「よい」は「何であるか[実体]」においても、「性質」においても、「関係」においても語られるが、「それ自体としてあるもの」すなわち「実体」は、その自然本性からして、「関係」よりも先立つものである(実際、関係[として語られるもの]は、幹から枝分かれしたようなものであり、「ある」ものにたまたま付帯するようなものである)。したがって、こうしたものに共通するイデアはありえないということになるだろう。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.42-43)

 アリストテレスは、プラトンが提示した普遍的な「イデア」の概念に疑問符を賦与する。「善い」という言葉で示される諸々の多様な事柄に共通する本質が、個物に先立って揺るぎない「実体」として存在するという考え方に論理的な瑕疵を見出している。純然たる「善」が万古不易の絶対的な普遍性を保持し、その部分的な反映として諸々の「善い事物」が存在するという論理は、対象となる事物の相互的な同質性や並列性を前提としている。例えば「善い人間」は「善のイデア」と「人間のイデア」との同時的な「分有」の結果として生成される。このとき「善のイデア」にとって「人間」の要素は偶有的な要素であり、他方「人間のイデア」にとって「善」という性質は偶有的な要素であると考えられる。「偶有的」を別の言葉に置き換えるならば「付帯的」ということになるだろう。「人間」が「人間」として存在する上で「善」という性質は必ずしも不可欠の要件ではないからだ。この場合、付帯的であると看做される「善」の性質は、同時に別のイデアを、つまり「善」のイデアを伴っている。「善い人間」が「善のイデア」と「人間のイデア」の複合した状態であるならば、これらのイデアは相互に同格の地位を備えるものと定義しなければならない。

 それでは、純然たる「イデア」とは如何なる状態に置かれていると考えるべきなのだろうか。「善のイデア」及び「人間のイデア」は、我々の具体的な想像力の及ばない領域に安置されているのだろうか? 少なくとも、我々の感性的認識は決して純然たる普遍性としての「イデア」を捉えることは出来ないだろう。生成的な領域においては、あらゆる個物は相互的で流動的な「陥入」の状態を絶えず保持している。個物の輪郭は極めて不安定な境界に過ぎず、それぞれが揺るぎない「本質」だけを保って現前することは有り得ない。それが我々の有する感覚的な現実の姿である。プラトンは、そうした感性的な世界像を虚妄と看做して貶下し、純然たる普遍的な「本質」だけが並列するイデア的な領域の不当な「混淆」に過ぎないと結論する。相互的な分有によって個物が形成されるのであれば、個物とは要するに多様な「イデア」の流動的な複合に他ならないからである。しかし、如何なる事物に対して「イデア」の設定を認めるのかという問題の明瞭な解決は容易ではない。例えば「犬」のイデアを認めながら、同時に「プードル」や「ダックスフンド」のイデアを認めることは可能だろうか。「犬」のイデアに着目するとき、我々は「プードル」も「ダックスフンド」も「犬」のイデアを分有する存在として取り扱い、それぞれの犬種に固有の特徴は「犬」の「本質」とは無関係な偶有的要素に過ぎないと判断して軽視するだろう。けれども、仮に「プードル」のイデアが有り得るとすれば、それは「ダックスフンド」のイデアとは完全に切断されていなければならない。尚且つ、それらのイデアは「犬」のイデアとの間に如何なる論理的な関係を持ち得るのだろうか? 「プードル」の「本質」は「犬」の「本質」と等価なのだろうか? もしも両者が並立し得るならば「プードル」の「本質」と「犬」の「本質」とは完全に別個のものである必要がある。そのとき「犬」のイデアは「プードル」のイデアを包摂する権利を喪失することになる。その場合、個物としてのプードルは「プードル」であって「犬」ではないということになる。だが、こうした区別は恣意的な分類の帰結であって、人間の認識に先立って存在する恒常的な分類であるとは言い難いのではないか?

 このように考える限り、或る特定の「イデア」が他の「イデア」を包摂することは原理的に有り得ないと結論せざるを得ない。若しも「イデア」による「イデア」の包摂が可能であるならば、必然的に包摂される側の「イデア」は「偶有性」として定義され、従って「イデア」としての資格を失ってしまうことになるだろう。また「イデア」は純然たる「本質」であることを定められているのだから、自らの「本質」の裡に如何なる夾雑物も混入させず、自己に本質的な仕方で属することのない要素を断じて受け容れない筈である。従って「イデア」同士が部分的に重なり合うことは定義上、不可能である。「犬」のイデアは「プードル」のイデアと、如何なる要素も共有しない。しかし「犬」のイデアと「プードル」のイデアが如何なる共通項も持たないと考えることは容易ではない。

 仮に個物の側から出発した場合、例えば我々は「プードル」と「ダックスフンド」とを比べて、両者に共通する要素を発見し、それに対して「犬」というイデアを賦与することになるだろう。そして「犬」という普遍的本質に諸々の付帯的な要素が加わることによって、それぞれの犬種が形成されるのだと考えるようになる。この場合、我々は「犬」というイデアを事後的に発見している。けれども、プラトンは個物に先立って「犬」というイデアが恒常的に存在すると主張している。プラトンの議論は、何らかの設計図に基づいて繰り返し製造される人工的な事物に就いては、滑らかに適用することが可能である。世界中の道路を疾走する個物としての自転車は実際に、範型としての「自転車」に偶有的な要素を附加することで生み出されている。自転車の製造に関して、プラトンの「イデア」を巡る学説を適用することは自然な手続きのように見える。しかしながら、このような「自転車」のイデアが、純然たる「本質」に充たされていると言い切れるだろうか? 少なくとも「自転車」というイデアが形成される為には、それを構成する複数のイデアの関与が不可欠だったのではないか。車輪やサドルやハンドルやチェーンと謂った諸々の部分は、所謂「自転車」と呼ばれる理念が形成される以前は、各自の「イデア」を堂々と占有していたのではないか。仮にそうであるならば、我々が「自転車」と呼んでいるものに普遍的な「イデア」を見出すことは謬見に他ならない。それは様々な種類の「イデア」が相互的に陥入したことの帰結であり、紛れもない「分有」の所産であり、従って「イデア」の資格を充たすとは認められないからである。

 これらが分類の問題に過ぎないのならば、畢竟「イデア」とは言語の問題に過ぎないということになる。事実、プラトンは感覚によって「イデア」を把握することは不可能な目論見であると執拗に強調している。但し、諸々の単語と感覚的事物との対応の関係が、その単語の属する言語的体系によって異なることを鑑みれば、理性的認識によって普遍的な「イデア」を把握することの正当性にも異議を唱える必要が生じる。あらゆる言語的体系に共通して存在する厳密な定義の「名辞」が存在するならば、少なくとも、その名辞の対象に指定される事物に関しては、普遍的な「イデア」の擁立を許可することが出来るだろう。しかし、若しも仮に言語が存在せず、従って如何なる名辞も存在しないとしたら、そのとき果たして「イデア」は実在するのだろうか? 有史以来、誰一人として未だ如何なる名辞も授けたことのない事物に就いて「イデア」を想定することは可能だろうか?

 さらにまた、「よい」は「ある」と同じくらい数多くの意味で語られるので(というのも、「よい」は、たとえば神や知性が「よい」と語られるように「何であるか[実体]」においても語られるし、もろもろの徳が「よい」と語られるように「性質」においても語られる。また適度であることが「よい」と語られるように「量」においても語られ、有益さが「よい」と語られるように「関係」においても語られ、好機が「よい」と語られるように「時」においても語られ、住居やほかのそうしたものが「よい」と語られるように「場所」においても語られるからである)、それゆえ明らかに、善がすべてのカテゴリーに共通する普遍的な何かひとつのものであるということはありえないのである。というのも、[もしそうだとしたら]すべてのカテゴリーにおいてではなく、ただひとつのカテゴリーにおいてのみ語られただろうからである。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.43-44)

 我々の用いる言語は、文脈に応じて多義的な変容を遂げることが慣習となっている。我々が「善い」という言葉を用いるとき、その含意は文脈に応じて随時、変動する。従って「名辞」の言語的な共通性に基づいて、総ての「善きもの」が同一の普遍的な「イデア」を分有していると判断することは謬見である。そもそも、それらの「善きもの」が相互に同一の普遍性を宿していると看做される根拠が「名辞」の共通性に過ぎないのであれば、結局「イデア」の定義は分類の問題であるという見解に抗することは難しいだろう。「イデア」を恒常的な「実体」と看做す限り、こうした困難を排除することは不可能である。「イデア」が便宜的な仮象であるならば、その定義が実体的な厳密性を保持し得なくとも、技術的な障碍は抑制される。分類の基準が変更されれば、それぞれの「イデア」の受け持つ範囲も変動するのは必然的な帰結であるからだ。しかし「イデア」を恒常的な実体と断定する以上、それぞれの「本質」と目される要素が分類に応じて変動するのは奇妙な現象である。そもそも、それが「実体」であるならば「分類」が変動する理由自体が、根本的に生じ得ない筈である。

ニコマコス倫理学(上) (光文社古典新訳文庫)