サラダ坊主日記

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アリストテレス「ニコマコス倫理学」に関する覚書 4

 古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『ニコマコス倫理学』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 同様のことが、善のイデアについてもあてはまる。というのも、もし[さまざまな善いものに対して]共通して述べることができる或るひとつの善があるとしても、あるいは、それ自体であるものとしてほかから独立してありうるような或るひとつの善があるとしても、それが、人間が為しうる善でも、人間が獲得できる善でもないことは、明らかだろう。そして、今探究されているのは、こうした人間が獲得できて為しうる何かなのである。

 しかしこれに対して、人は、こう思うかもしれない――もろもろの善のなかでもわれわれが獲得できて為しうる善を知り、獲得するためにこそ、善のイデアを認識することは、よりよいことなのだ、というように。というのも、善のイデアを範型のようなものとしてわれわれが手にするならば、われわれは自分にとってのもろもろの善についてもいっそう知ることになるだろうし、またもし自分にとって善いものを知るならば、われわれはそれらもろもろの善を獲得できるだろうからである。――この説明は一定の説得力をもっているが、諸学問の実情とは一致しないと思われる。というのも、あらゆる学問はなんらかの善を目指し、足りていないものを探し求めるが、善のイデアの認識にはかかわらないでいるからである。それゆえ、善のイデアの認識がその点で有益だとしたら、それほど助けになるものをどの技術者も知りもしなければ探し求めもしないということは、説明がつかないことである。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.50-51)

 プラトンの哲学においては、思惟の最も崇高で本質的な企図は、超越的な範型としての「イデア」(idea)を、理性の正しい運用を通じて把握することの裡に置かれていた。感覚によって捉えられる生成的な現象に関する認識や技術は、そうした超越的観想に比して劣等なものであると看做すのが、プラトンの顕著な思想的特徴である。技術を軽蔑し、芸術を批難したプラトンにとって、個別的な事象に対応する為の実践的な思索は、哲学の本分に属するものではないと思われたらしい。そのことの是非は扨措き、少なくともアリストテレスは、倫理に関する実践的な追究の過程で、プラトニックな超越的思惟に不満を述べている。この聊か皮肉な調子の論述は、プラトンが後生大事に信奉した理性的な範型としてのイデアの価値に就いて疑問を附している。理性によってのみ到達され得る普遍的な実体としてのイデア、それは生身の人間が暮らす生成的な領域からは隔絶された存在である。対話篇「パイドン」で述べられた霊魂の不滅に関する議論は、人間が現身の状態で「真理=実有」へ直に触れることの不可能性を明瞭に告示している。現世からの超越、肉体的感覚の否定、経験論に対する蔑視、これらのプラトニックな特質が、実践的な技術や行為の問題と親和しないのは当然であると考えられる。

 アリストテレスは師父と異なり、事物の超越的な「範型」に就いて語ることよりも、個別的な真理を探究することに重要な意義を見出している。イデアに就いて論じることは、眼前の実践的課題を解決することには寄与しないというのが、彼の下した身も蓋もない診断である。様々な「善いもの」から抽出された純然たる「善性」が実在するとしても、それが超越的な領域に逼塞して地上の生成的な事象に全く関与しないのであれば、そのような「善性」に就いて議論することは確かに無益である。少なくとも、そうした思惟が「観想」という営みに固有の歓びを獲得すべく為されるのではなく、現実において「優れた人間」となる方途の一環として為されるのであれば、その効果に就いては懐疑的な判断を持たざるを得ないだろう。実践的である為には、個別的な真理の発見が不可欠である。何故なら、この生成的な現実においては、純然たる「善性」が具現化することは有り得ず、常に何らかの偶有的な要素を伴って顕れ、尚且つ絶えず流動し変貌することを強いられるからである。それゆえ、アリストテレスは自らの倫理学的探究において、普遍的な「善性」に就いて議論したり検証したりする選択肢を排除する。彼は寧ろ感覚的な経験の集積から出発し、それらの夥しい認識を整理し、吟味する作業に重点を置いている。彼は飽く迄も「人間的条件」に基づいて「善」や「徳」に関する探究を進めるべきであることを繰り返し強調している。人間の手が届かない超越的な領域に存在する「善性」に就いての考究は、実際に個々の人間が具体的な善性を獲得することの手助けには帰着しないというのが、アリストテレスの判定なのである。

 さて、目的は多くあるように思える。だが、これら多くの目的のうちの或るもの――たとえば、富や笛や、一般に道具となるさまざまなもの――をわれわれが選ぶのはそれとは別の何かのためなので、明らかに、あらゆるものがそれで完結した目的となるわけではない。しかし、明らかに、最高善とは完結した目的なのである。したがって、もし或るひとつのものだけが完結した目的だとしたら、それがわれわれの探究している善であろうし、もし多くあるのだとすれば、それらのなかでもっとも完結した目的がわれわれの探究している善であろう。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.53-54)

 普遍的で超越的な「善性」、感性による把握の及ばない、純然たる理性的実在としての「善性」に就いて論じる代わりに、アリストテレスはより具体的で実際的な方面において「善」という一般的概念の正体を闡明しようと試みている。恒常的な不動性を備えた「善性」に関する議論は、専ら理智による観想の対象であり、その観想にも高度な意義が認められ得るとしても、実践という見地から眺める限り、それは明確な実効性を持たず、従って我々の行動に関する個別的な規範の役割を果たさないということになる。「真理」に関する理性的論証の徹底的な厳密さは、個別的な行為の有用性や妥当性を高める為の手助けには相応しくないのである。何故なら、個別的な行為は普遍的で超越的な領域において実現されるのではなく、プラトンによって明確に貶下された感性的な生成界において生起するものだからである。

 われわれは、「それ自体として追求される事柄」を「ほかのもののために追求される事柄」よりも「いっそう完結したもの」と言い、また、「ほかのもののために選ばれることがけっしてない事柄」を「それ自体としてもほかのもののためにも選ばれる事柄」よりも「いっそう完結したもの」と言っており、「それ自体として選ばれ、ほかのもののために選ばれることがけっしてない事柄」を「限定ぬきに完結したもの」と言っている。そして、とりわけ幸福が、そうしたものであると思われている。というのも、われわれが幸福を選ぶのは、つねに幸福それ自体のためであって、けっしてほかの何かのためではないからである。これに対して、名誉や快楽や知性やあらゆる徳を、われわれはそれ自体のためにも選ぶが(というのも、そこから何も生まれなくても、これらそれぞれのものを選ぶだろうから)、これらを通じて幸福になるだろうと考えて、幸福のためにも選ぶからである。しかし、だれも、幸福をこれらのもののために選ばないのであり、およそ何かほかのもののために幸福を選ぶこともない。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.54-55)

 「幸福」とは何かという問題に就いて考えるとき、アリストテレスプラトンのように「幸福」の普遍的定義を明らかにすることだけに注力しようとは考えない。「幸福」の普遍的定義は、如何なる偶有的な条件にも左右されずに保持される「幸福」の純然たる要素の範囲の確定を示すものであり、現に「この私の幸福」が如何なる偶有的条件の下に成立するかという実践的な設問とは異質な目的を担っている。人間的条件に基づいた「幸福」の定義を考えるべきであるというアリストテレスの提言は、普遍的定義の闡明に固執するだけでは「神性」に基づいた絶対的な「幸福」を論じることにしか帰着せず、従って我々「人間の幸福」に寄与することがないという判断に依拠して発せられている。それゆえに彼は、具体的な現実の観察を通じて、一般に「善」或いは「幸福」が如何なる定義を賦与されているのかを検証することによって、人間的な幸福の条件を解明しようと企てるのである。

ニコマコス倫理学(上) (光文社古典新訳文庫)