サラダ坊主日記

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アリストテレス「ニコマコス倫理学」に関する覚書 5

 古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『ニコマコス倫理学』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 さて、幸福を最善のものと語る点ではおおよその合意が得られているようにみえるが、さらにここでは、より明確に幸福とは何であるかを語ることが求められている。おそらく、人間の「はたらき」が把握されるときに、明確に語られることになるだろう。というのも、笛吹きや彫刻家やあらゆる技術者にとって、また一般に或るはたらきや行為をする人にとって、よさや立派さということがそのはたらきにはあると思われており、そのようにして人間[自身]にもなんらかのはたらきがあるとするならば、人間にとってもまたよさや立派さがあると思われるからである。

 さて、大工や靴職人には或る一定のはたらきや行為があるのに、人間にはそうした一定のはたらきは何もなく、人間は本来無為なものなのだろうか? それとも、目や手や足や一般に身体のそれぞれの部分に一定のはたらきがみられるように、そのようにして人間にも、それらすべての部分とは別に、人間としての或る一定のはたらきを想定できるのだろうか?(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.56-57)

 アリストテレスは「幸福」の具体的な実相に就いて論究する為の予備的な確認として、人間という種族に固有の「はたらき」とは何かを調べようとしている。但し注意すべきことは、アリストテレスが「幸福」の厳密で普遍的な「実有」(idea)に就いて精緻な議論を展開しようと試みている訳ではないという点である。言い換えれば、彼は「幸福」を普遍的な理念として眺めるのではなく、専ら感性的で経験的な現象として捉えることに力点を置いているのである。人間に固有の機能や活動が殊更に重要な論題として挙げられるのは、プラトンのように恒常的で静止的な理念として、つまり如何なる具体的な行為にも作用にも関与しない不動の実体として「幸福」や「善」を定義することを、アリストテレスが拒絶していることの紛れもない証拠である。彼が求めているのは「幸福」や「善」の本質的様態を観想することではなく、現実の生活を通じて「幸福」や「善」に到達し、実践的な仕方によって体現することなのである。

 想定できるとすれば、そのはたらきはいったい何なのだろうか? 探究されているのは[人間のはたらきとして]固有なものだが、「生きること」は、明らかに植物にも共通している。それゆえ、「栄養摂取の生」と「成長の生」は除外しなければならない。そのつぎの候補は「感覚にかかわるなんらかの生」であろうが、これもまた明らかに馬や牛など、あらゆる動物と共通している。したがって残っている候補は、「分別がある部分による行為にかかわるなんらかの生」である。ただし、「分別がある部分」については、「分別に従う部分」と「まさに分別をもち思考する部分」がある。しかし、「行為にかかわるなんらかの生」もまた、[「活動する」と、単に「性向のもとにある」の]二つの仕方で語られるので、活動の意味での生を想定しなければならない。というのも、それのほうがより本来的な意味で語られているように思われるからである。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 p.58)

 アリストテレス倫理学的な探究は専ら「人間的幸福」の実現に向かって捧げられているので、必然的にその考察は人間という種族に固有の特徴的な働きを闡明する為に進められる。そこで登場するのが「分別」(logos)という概念であり、人間の類的な特性は、分別によって自己の心身が統御されているという点に見出される。

 同時にここでは「ニコマコス倫理学」の全篇に亘って幾度も登場する「性向」(hexis)と「活動」(energeia)との論理的弁別に就いて、簡潔な言及が行われている。この場合の「性向」という概念は、或る個別的な人間に内在する「本質」(ousia)を指し示すものであるように思われる。尤も、それはプラトンが提示した超越的実在としての「イデア」(idea)と厳密に重なり合うものではない。プラトン的な「イデア」は恒久不変の実体であり、時間的推移に支配される生成界の裡には顕れることがない。他方、アリストテレスの提唱する「ヘクシス」は、具体的な行為の累積である「習慣」によって形成される可変的な概念であり、人間の個別的行為に関わる選択の根幹を成すものである。「性向」にまで高められた習慣は、その人間の選択や行為を規定する重要な範例として機能し、当人の行動を支配する。それは「活動」の潜在的な要因であると言い換えることも出来る。

 アリストテレスは「性向」よりも「活動」の方に真摯な関心を寄せている。彼の考えでは、潜在的な本質を有するのみならず、それを具体的な行為として展開し、現実化する過程を踏まなければ「幸福」も「善」も十全に実現されたとは言えないのである。優れた人格そのものの存在は認めるけれども、優れた人格が内在的な性向のままに留まり、具体的な行為に帰結しないのであれば、優れた人格の意義は縮減してしまうというのがアリストテレスの見解である。

 こうしてわれわれの説は、幸福とは徳である、あるいは、或る種の徳であるとする見解と合致している。なぜなら、[われわれが唱えている]徳に基づいた活動は徳のことをいっているからである。ただし、最高善は[徳の]所有にあるとするのか、[徳の]使用にあるとするのか、すなわち[徳がそなわった]性向にあるとするのか、[徳に基づいた]活動にあるとするのかという違いは、おそらく些細な問題ではない。というのも、[徳がそなわった]性向には、性向として徳がそなわりながらも、たとえば眠っている人の場合や、それ以外にもなんらかの事情で動きがとれなくなっている人の場合のように、いかなる善いことも為し遂げないことがありうるが、[徳に基づいた]活動には、そんなことはありえないからである。というのも、[徳に基づいて]活動する人は、かならず為すのであり、しかもかならず立派に為すからである。つまり、ちょうどオリュンピア競技において栄冠を手にするのが、最高の美しさと最高の力強さをそなえた人々ではなく、実際に競技する人々であるように(というのもかれらのうちのだれかが勝利するのだから)、そのようにして、人生における美しく善き事柄についても、実際に行為する人々こそがそれらを勝ち取る人々であるとすることが、正しいのである。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.66-67)

 潜在的な「性向」の裡に留まる限り、人間の徳性が最大限の「幸福」を実現することは有り得ない。こうした考え方が、プラトンの「イデア」に関する学説と対蹠的な性質に由来していることは明白である。アリストテレスは、地上的な現実に関与しない普遍的な徳性の価値を認めない。イデアが如何に崇高な要素を帯びていたとしても、地上に生起する具体的で経験的な事実に対して影響を及ぼさないのならば、イデアに関する澄明な認識は、人間の幸福の増大には全く貢献しないのである。それゆえ、イデアは具体的な現実の裡に展開されねばならない。イデアを人間の手の届かない超越的な高みに飾って崇めるだけでは無益であるし、現身の肉体が味わうことの出来ない超越的な善性や徳性に就いて論じることは、我々の現実的な生活を少しも充実させない。「実体」と「仮象」とを切断し、尚且つ「実体」を不可知の領域へ幽閉し、我々の属する経験的な現実を虚妄と看做すプラトンの論理は、人間を純然たる「観想」以外の価値には赴かせないのである。言い換えれば、プラトンの思惟は、地上的な現実や経験的な認識に対する根源的な侮蔑を含有している。地上的な幸福は有り得ず、感覚的な喜悦は悉く贋物の享楽として排斥され、普遍的な「真理」に到達する権利は、生身の人間たちの手から無条件に剥奪される。このような考え方は、様々なものを捨象することで辛うじて成立している。流動的で不安定な現実に多くの恵みを期待しないことは、プラトンに限らず、古今の賢者が口を揃えて推奨してきた倫理的な要諦ではあるが、感性的な現実を丸ごと捨象する態度は、生身の現実からの遁走に他ならないのではないか。アリストテレスが「徳の所有」よりも「徳の使用」の意義を強調するのは、師父の築いた精緻な思想に対する批判的な意識の証左であるように思われる。

ニコマコス倫理学(上) (光文社古典新訳文庫)