サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

若き心理学者の肖像 三島由紀夫「彩絵硝子」

 三島由紀夫の短篇小説「彩絵硝子だみえがらす」(『鍵のかかる部屋』新潮文庫)について書く。

 作家の文体が、年輪の堆積に伴って様々な変遷を遂げるのは当然の現象であり、そこには当人の精神的組成の変貌や、徐々に培われた世智の醗酵などが影響している。「三つ子の魂百まで」という俚諺は確かに真理の或る側面を言い当てているには違いないが、根源的な感性の様式は揺るがないとしても、そこに附加される夥しい経験の重量が如何なる屈折も褶曲も魂に強いないとすれば、それは余りに杜撰で呑気な生活であると言わざるを得ないだろう。幼児のままで大人びることは不可能ではないし、実際、そのような金魚鉢の住人のような成年も現代では特に珍しくもないが(アンチエイジングが持て囃される時代、古めかしい朴訥な成熟の価値が貶下される時代なのだから)、真っ当に暮らしていれば、逢着する諸々の事件や苦労から何事かを学び取り、肝に銘じて、人生の進路を幾度も革めるのが普通であり、その反復が少しずつ当人の内面に根源的な変化や発展を齎すのは巷間の常道である。

 後年の三島は、その硬質で明晰な文体によって知られたが、十代の「花ざかり」の季節には、その文章は極めて曖昧模糊たる感覚的表象の散乱と連鎖を演じている。事実の客観的な枠組みを緊密な措辞で的確に浮かび上がらせていく後年の文体を私個人は好んでいるが、初期の幽玄な文体を珍重する人も少なくないだろう。主観的な印象と客観的事実との境目に頓着しない、殆ど晦渋な幻想の旋回が、戦時下に暮らす青年の閉鎖的で超越的な内面を露わに反映していることは疑いを容れない。

 「彩絵硝子」は、例えば「花ざかりの森」や「苧菟と瑪耶」といった作品に比べれば、相対的に客観性の程度が強い布置結構となっている。

 化粧品売場では粧った女のような香水壜がならんでいた。人の手が近よってもそれはそ知らぬ顔をしていた。彼にはそれが冷たい女たちのようにみえた。範囲と限界のなかの液体はすきとおった石ににていた。壜を振ると眠った女の目のような泡がわきあがるが、すぐ沈黙即ち石にかえって了う。

 退役造船中将男爵宗方氏は大きな香水を買った。自分のために、である。(「彩絵硝子」『鍵のかかる部屋』新潮文庫 p.8)

 若年の三島が小説家以前に先ず「詩人」を志していたことは夙に知られた事実である。そして初期の作品において、彼の意識や技倆が過渡的な変遷の裡に置かれていたことは明らかである。例えば「花ざかりの森」における時間や空間の柔軟な変異、曖昧な主語と夥しい比喩は、彼が明晰な現実を虚構として形作ることよりも、感覚や心情の多彩な運動の言語的定着に関心を寄せていたことを傍証するように思われる。しかし「彩絵硝子」という作品に限って言えば、他人の情動や縺れた関係などに対する犀利な分析の眼差しなど、主観的で抒情的な告白や妄想に留まらない創造への意志が、相対的に強まって顕れているように見受けられる。とはいえ、生活の経験の総量が圧倒的に不足している少年が、例えば退役した軍人の時ならぬ「若さ」への渇仰を隅々まで、微に入り細を穿って描き出すことなど可能だろうか。犀利な客観性を得ることの困難が、抒情的な表白や感性的な燦めきの強調或いは羅列に傾くのは詮方ないことである。この当時の三島が、自分自身に固有の主題を明晰に、適切な仕方で把握していたかどうかは疑わしい。

 憎悪だけが二人の絆だ。闘争ともいわれるような最も物慣れた人々の間に交わされる型式によって、かれらの愛が出発したのは、とりもなおさずかれらが内気に過ぎたからだった。おそろしげに籬かげに身をひそませながら、摘もうと思う向う側の花を、手ものばせずにみているのだった。傍目には垣に心をへだてられて憎みあっているのだとでも思われるような様子をして。(「彩絵硝子」『鍵のかかる部屋』新潮文庫 p.16)

 こうした尤もらしい心理的描写は、仔細に調べてみれば然して鋭敏な発見を含んでいるようにも思われない。また、こうした描写は概ね断片に留まり、後年の作品のように、物語の骨格へ有機的に結び付き、発展していくようなダイナミズムは充分に育っているとは言い難い。愛情の裏返しとして顕れる形式的な憎悪、という観察は、思春期の繊細な自意識が演じる極めて凡庸な現象に過ぎず、それを殊更に暴いたところで読者の認識的な構造が震撼される見込みは乏しい。固より、心理的な解剖とは、数多の観念を用いて営まれる技芸の一種に他ならない。その技芸が読者の感嘆を勝ち得る為には、作者は心理というものの多彩な変奏に就いて人並み以上に通暁していなければならない。「肉体の悪魔」において、年上の人妻と不倫する少年のエゴイズムを仮借ない筆致で解剖してみせたレイモン・ラディゲの早熟な才能に対する憧憬が、こうした背伸びを作者に強いたのであろうか。